【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(3)】 奥様への感謝感じる マチコ・クスナエニ
父と義理の兄が大阪毎日新聞(現毎日新聞)に勤め、母が小説家となったのもサンデー毎日で入賞したのがきっかけだったこともあり、一九八〇年に草野さんが毎日新聞のジャカルタ特派員として赴任されてからすぐ、お知り合いになりました。
スハルト大統領(当時)と同じチュンダナ通りに事務所兼住居を構えていました。「心の広い人だな」というのが最初の印象。お手伝いさんなど、そこにそれまで住んでいた人を追い出すことはせず、自分で面倒をみてらっしゃいました。
私が放送記者を務めていたインドネシア国営ラジオ放送局(RRI)の国際放送日本語番組では、じゃかるた新聞創刊前に「人と暮らし」のコーナーで二週にわたってインタビューし、支局長時代のことや、なぜじゃかるた新聞を立ち上げるかなどについてお聞きしました。支局長時代には雑誌に活動を紹介してくださったり、編集長時代には毎年年末にインドネシアの一年のまとめ、年頭には今年の展望をお話ししていただいたりもしました。
社会部出身だからということもあってか、情報の取り方がこれまでの特派員の方とも違っていました。アシスタントを連れ、カンプンのワルン(屋台)に座って、人々の話を聞くというやり方をしていました。
非常に印象に残っているのは奥様の康子さん(二〇〇六年に他界)のこと。それまでの海外勤務は単身赴任で、ジャカルタが初めての一緒の海外生活ということで、「本当に今までは妻には苦労を掛けっぱなしで、ジャカルタに来て何となく新婚時代のような感じです」とおっしゃってました。
奥様が亡くなられた後、夜の十一時過ぎに電話をいただいたことがありました。寂しそうな声で、「どうにもならない」と。普段はいつも、あの目を細めた笑顔でニコニコしていましたので、びっくりしました。「初めて妻孝行ができたのに」とよくおっしゃってました。奥様を本当に信頼していて、何よりも感謝していましたね。
若い人を教育し、必ず日本に帰すことにしていたのも偉いところです。インドネシアの悪い点も認識しながら、それでもインドネシアで余生を過ごしたいと願っていました。(談、元インドネシア国営ラジオ放送局=RRI=記者)(1952年に渡イ、80年代初めから親交を深める。2010年秋の叙勲で旭日単光章を受章)