【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(1)】 掛け替えのない師匠 萩尾 信也
「クサノサ〜ン」。蒸したての饅頭のようにほっこりとした顔を見かけると、誰もが親しみを込めて声をかけた。草野支局長の元で特派員として暮らした一九九〇年代前半のインドシナ。政財官の重鎮から、屋台のおばさんや物売りの少年やゴーゴーバーの女性に至るまで、顔の広さには舌を巻いた。
国際会議となれば、各国のジャーナリストが取り囲んで人の輪が出来た。市井の人の営みに風俗文化や歴史を交えながら、においや喧噪の音まで伝わってきそうな草野節は、時代の風向きを示唆してくれた。話し始めると止まらないところもあったが、相手の懐にスッと入り込む類いまれな聞き手であり、一期一会を大切に育む新聞記者の先達だった。
安保闘争に揺れた一九六〇年、デモ隊の先頭に立ち、訪日したアイゼンハワー米大統領の報道官を「ゴーホーム」と追い返した逸話が残る。活動資金は「ダンパで稼いだ」と聞いたが、仏領時代の名残を残すプノンペンのディスコで社交ダンスに興じる姿を見て納得した。実に軽やかなステップだった。
東南アジアにあった毎日新聞の四つの支局を全て経験したのは、後にも先にも彼だけである。激動の時代の東南アジアを現場で体感した特派員人生だった。「記者の醍醐味は異なる物差しと出会うことだよ。自分の物差しが吹き飛ばされた時のショックもあるが、それ以上にわくわくする」。尽きない探求心は、薫陶を受けた後輩たちの範となった。
余命が長くないことは本人から聞いて承知していた。タフな人ではあったが、健康管理にはからっきし無頓着だった。「長年のつけが来たよ」。がんが見つかった時は手遅れだった。最後にお会いしたのは昨年末、東京の街にジングルベルが流れていた。病床から身を起こすこともかなわなかったが、故郷・福島の原発の話題から、アラブの春やユーロ危機や日本社会の行く末に至るまで、時の過ぎるのを忘れたように二人で話込んだ。
「来春に東京に戻ってきたら、続きをやりましょう」。震災以来、岩手県の被災地で取材を続ける私がいとまを告げると、無言でそっぽを向いた。訃報に接した時、その時の寂しげな横顔が思い出されて切なかった。「あなたは僕の掛け替えのない師匠です。本当にお世話になりました」。出立の前に伝えておこうと決めていたのだが、そのまま病室を出てしまったことを悔いている。(毎日新聞東京社会部編集委員)
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1992年4月―95年3月、バンコク支局とプノンペン支局で草野支局長の下で支局員<