【スラマット・ジャラン】かけがえのない経験 ホンダ・プロスペクト・モーター 内田知樹社長
ホンダ・プロスペクト・モーター(HPM)の内田知樹社長が今月末に帰任する。東日本大震災直後の2011年3月に赴任したが、震災で日本から部品供給に影響が出るなど、売りたくても売れない我慢を重ねた。それから6年、16年のHPMの新車販売は、19万9364台と当時の約4・4倍、マーケットシェアは5%から19%と大きく拡大した。任期を振り返って内田社長は「シンプルにインドネシアだけを見て仕事ができた。かけがえのない経験」と話した。
■作りたくても作れない
「共に戦っている販売店の期待に応えられない。そのことが一番辛かった」。11年のインドネシアは中間層が拡大を始めた経済成長の真っ只中。自動車販売も大きく伸びていた。新しいマーケットへの挑戦に期待をもって赴任した内田社長を悪夢が襲う。
大震災で被災した電子部品のサプライヤーなどがあり、部品供給は大きく滞った。年後半、日本からの部品供給にめどが立ちはじめたころ、タイで大洪水が発生、サプライヤーが被害を受けた。11年の販売は4万5416台に止まり、販売シェアトップ5から脱落した。作りたくても作れない、売りたくても売れない中で、「ジタバタしてもしょうがない。今できることをやろう」と内田社長は心に決める。
■覚悟の共有
地方都市の販売店を回り、市場調査と自社の状況把握を徹底的に行った。販売する新車がなく中古を売ってしのいでる販売店があった。「必ず当てないといけない。もう後はない」と、研究所、製造、営業、販売店の各部が一体となり、その覚悟を共有することができたと内田社長は語る。
12年になると、続けざまに新モデルを発表、その後、LCGC(低価格グリーンカー)のブリオ・サティヤ、満を持して投入した低価格MPV(多目的車)モビリオが人気を集めた。マーケット全体が落ち込み、各社軒並み販売を落とした14年、HPMは前年比74%増と大きく躍進した。
■喜ぶ商品づくりを
「実はAKB48さえ知らなかった」と内田社長。JKT48をブリオのプロモーションに起用したのは、「彼女たちが夢の力を信じ、頑張る価値観は、ホンダも、そして、自分も一緒だと思う」と語る。
「映画『オールウェイズ三丁目の夕日』に出てくる日本の1960年代前半、幼い頃の昭和の空気を感じる場所がこの国には多々ある。『明日は今日よりきっと良くなっていく』と、将来の幸せや成功を純粋に信じている人々がいる」と内田社長は話す。
帰任して、商品企画部に戻る内田社長は「インドネシアとの関わりは今後も続く。販売店の一人一人を思い浮かべながら、シンプルにインドネシアに向かって商品をつくりたい。一緒に頑張ってきた人々が喜ぶような商品をつくって、応援したい」と今後の抱負を語った。(太田勉、写真も)
うちだ・ともき 学習院大卒。87年、本田技研入社。01〜06年ブラジル、07〜11年英国に駐在。11年3月からホンダ・プロスペクト・モーター社長。4月1日から本田技研四輪事業本部商品企画部長。52歳。東京都出身。