【「忘れ得ぬ人」】アチェ分離独立運動 影の指揮官 黒岩通氏
太平洋戦争中、アチェ軍政部特別警察隊長を務めた黒岩通氏は終戦後、アチェ人部下の特別隊員300人以上を引き連れ、徹底抗戦を叫んだ。軍政長官の度重なる命令で山を下り、その後、アチェ人側と交渉し、日本の海軍将兵3204人、陸軍485人、政庁26人の合計3715人の邦人を安全に脱出させ、マレーシアに到着させることに貢献した。
黒岩氏は引き続きアチェに残留し、残留日本兵・軍属の中心的リーダーとして、また、スマトラ・ブシンドー(イスラム系青年社会党)軍司令官として活躍、インドネシア人兵士から黒岩将軍と呼ばれ尊敬され、多くの勇敢なアチェ兵士を訓練した。オランダ側が黒岩氏に懸賞金をかけたほどだった。黒岩氏は上海作戦で中国語を操った諜報機関の軍人といわれ、独立戦争の際、オランダの軍艦に対し大砲を的確に発射し、オランダ軍のアチェ・サバン島上陸を阻止したことはよく知られている。
インドネシア独立後、スカルノ初代大統領はアチェ州を認めず北スマトラ州の一部としたことから、アチェ分離独立紛争がぼっ発した。黒岩氏が分離独立の影の指揮官となっていたことは現地では有名だった。アチェは最終的に独立を断念して特別州としてインドネシアに組み込まれたが、1956年、各地で地方反乱事件が発生、アチェでもダルル・イスラム(イスラムの大地)の武力闘争が起き、激戦となった。この時、スカルノ大統領は黒岩ブシンドー軍司令官を逮捕、反乱軍を指揮しないように拘禁した。日本に強制送還させ、二度とインドネシアに入国しないよう約束させた。しかし、帰国後、アチェのダルル・イスラムの指導者や元部下たちは密かに来日して黒岩氏に面会、後に首相となる佐藤栄作氏にまで会っていたことが、最近関係者が所有していた写真によって判明した。
黒岩氏はオランダ系インドネシア人と結婚、息子と娘がいた。インドネシアに残された息子のヘンリー黒岩氏は昨年11月、北スマトラ州メダンで、「自分が3歳の時に父親はスカルノに捕まり、メダンまで家族と共に移動、父はそのままジャカルタに移送され、悲しい別れとなった」と涙ながらに語った。
当時、アチェ・ブシンドー部隊の部下には、ハッサン・ティロ、ダウット・パロ(ナスデム党のスルヤ・パロ党首の父)などがいたことは有名である。63年、黒岩氏はインドネシアを再訪する。しかし、もはや黒岩名ではなかった。息子のヘンリー氏がホテルに赴き、「お父さん」と叫んだが、黒岩氏は自分は黒岩ではないと述べ、当時小学生のヘンリー氏は大きな声で「お父さん」と何度も泣きながら叫んだのを今でも覚えていると語った。
黒岩氏はインドネシアで開かれた国際スポーツ大会の日本訪問団として来イした。黒岩氏は元々諜報機関に所属していて、諜報活動の一環としてインドネシアで関係者と接触した可能性があり、黒岩の名前を否定したのであろうと、ヘンリー氏は当時を振り返った。
黒岩氏は、日本に帰国後も、アチェ人との付き合いがあり、77歳の高齢になっても、アチェの最新情勢を送ってくる元部下がいたようである。黒岩氏は2000年1月18日、埼玉県久喜市の特別養護ホームで身寄りもなく永眠したと言われる。(濱田雄二、写真も)