【ジョコウィ物語】(9)独立、欧州市場へ参入 フランスと深い交流
ジョコウィはアチェ山間部での仕事を打ち切り、妊娠7カ月のイリアナを連れて故郷ソロへ戻った。叔父ミヨノのロダ・ジャティ社の工場で製材・家具製作の仕事を始めたのは1988年だった。
まず製造部に配属され、製材の初歩から学んだ。両親や叔父の作業を見て育ったが、自ら製造工程に関わるのは初めて。木材を乾燥機にかけ、製品に応じて切断していく。ジョコウィとほぼ同時期に入社したダルマント(50)は「注文に応じたデザインの家具作りを始めた。ゼロからのスタートだった」と話す。ダルマントはミヨノの長女ニニックと学生時代に知り合い結婚した。
ミヨノは85年ごろから台湾、香港、シンガポールなどへ家具を輸出していた。ジョコウィやダルマントらは新たに欧州市場の開拓を模索。欧州各地を回り、業者と商談を重ねるうちにインドネシア木製家具の潜在需要の大きさを直感した。
■各地の職人と連携
自分の手で事業を手掛けてみたい。89年、28歳の時に独立し、自身の会社「ラカブ」を設立。生まれたばかりの長男ギブラン・ラカブミンの名前の一部を取った。資金は銀行融資3千万ルピア、母スジアトミから6500万ルピア。1ドル1700ルピアの時代だ。「設立資金は限られていたが、ジョコウィには自分でやっていくとの決意があった」。ミヨノは幼い頃から面倒を見てきた甥(おい)の独立を快諾した。
当初雇った職人は3人のみ。受注数に応じてソロ周辺の職人に声を掛け、商品をそろえる。学生時代、父の家業を手伝った時に知り合った職人の協力を得た。自ら各地を回って商品の質をチェックし、納期を守ることの大切さを説いた。
ようやく仕事が軌道に乗ったころ、ジャカルタの業者にだまされ、破産に追い込まれる。木製の床や家具などを納入した後、その業者は代金を支払わず、行方が分からなくなった。これで会社は活動停止に追い込まれた。「あれだけ落ち込んだのは高校受験に失敗した時以来。部屋にこもったまま出てこなかった」とスジアトミは振り返る。
そこへ手をさしのべたのは、地方の中小企業の支援事業を手掛けていた国営ガス会社(PGN)だった。ジョコウィは職人との連携、国産家具の輸出の可能性などをアピールし、協力を取り付けて事業再開にこぎ着けた。
■カルフールから受注
91年に初めてシンガポールの国際家具展示会に出展。94年ごろから欧州や中東から次々と注文が舞い込んだ。フランスでは小売大手カルフールとの取引を開始。10年以上にわたり木製椅子を納入した。
「私は高価で高品質な商品を引き受け、ジョコウィは安価だが数量の多い注文をさばく。収益はジョコウィの方がはるかに大きくなった。各地の職人を動員し、うまく連携できたからだ」とミヨノは指摘する。
欧州の中でもフランスとの取引は大きく、交流も深い。ジョコウィと一緒に各地を回ったダルマントの長女はフランスのデザイン学校で学び、現在パリでデザイナーとして活躍する。
「ジョコウィ」の名付け親もフランス人業者のベルナルドだ。厳しい条件の注文でもあまり交渉せずに「ウィ(フランス語でイエス)」と言い、無理をしてでも顧客に誠意を尽くすのが「ジョコ・ウィ」。ソロの同業者でも多い名前のジョコを区別するためだったが、ジョコウィ自身もこれを気に入り、名刺や名札、公式な場所でも使っている。(敬称略、配島克彦)