【ジョコウィ物語】(6) UGMで自立学ぶ 政治・社会に関心高まる
学生の街、ジョクジャカルタはソロとともにジャワの古都で、全国各地から学生や研究者が集まる学園都市でもある。
ジョコウィは1980年、ジョクジャに広大なキャンパスを構える国立ガジャマダ大学(UGM)の林業学部林産物技術学科に入学した。家業の製材や家具制作を見て育ったこともあり、木材に関する専門知識を学ぼうと専攻を決めた。
進学を決意したのは、家計が改善されたと感じたからだ。父ノトミハルジョの製材業が軌道に乗り、ジョコウィが高校1年の時にマナハン競技場近くに自宅を構えた。小学高学年から住み慣れた叔父ミヨノ宅から引っ越し「居候生活」に終止符を打っていた。
UGMのあるジョクジャはソロからオートバイで約1時間。高校通学の時から日本製のオートバイを愛用していたが、毎日往復するのも大変なのでジョクジャ市東部のバチロ地区ムヌール通りにあるコス(下宿)に住むことにした。
民家の庭の離れ家で同居することになったのはソロ出身の2人。大学入試を控えた高校3年の時、短期間通った学習塾の仲間で、かつて受験に失敗した第1高校の卒業生でもあった。
「床にマットレスを敷いて3人で雑魚寝していた」。農学部に入ったリヨ・サメクト(53)はこのコスでジョコウィと2年間暮らした。その後転々としたが、2人は卒業するまでほぼ同じコス。ムラピ山と市街を結ぶカリウラン通り近くに一軒家を借り、第1高校の後輩20人と共同生活をしたこともある。リヨは「私の学生時代の思い出はジョコウィの汗のにおいが染みついている」と笑う。
■洗濯は毎朝自分で
生活は規則正しかった。キャンパスから戻り、夕方の礼拝を終え、午後7時ごろから勉強を始める。11時ごろには床に就く。起床後は水浴しながら前日の服を洗う。洗濯物はためない。食事は近くの食堂。パダン料理が好きで、おかずは牛肉とナスが好物だった。
学生たちが集まると、ギターを手にジョコウィが歌うこともあった。「ソロからロックのカセットテープをたくさん持ち込み、部屋に積み上げていた」。インドネシアのロック歌手ではギト・ロリーズやアフマッド・アルバル、海外ではドイツのスコーピオンズなどをよく聴いていた。
山岳部にも入った。地元のムラピ山やムルバブ山をはじめ、西スマトラのクリンチ山などにも登った。「市長や知事になってから、抜き打ち視察で健脚を誇っているのは、学生時代に足腰を鍛えたからだ」。一緒に山登りをしたリヨは現在、ソロの私立スラメット・リヤディ大学の社会貢献研究所所長を務める。
リヨが忘れられない事件がある。入学直後の週末、ソロに帰ろうとオートバイにジョコウィを乗せて走っていた時、若者たちに呼び止められた。「おまえ、チナだろ」。ジョコウィは目が細く、華人に間違われることがあったが、この時はなぜ大通りの路上で取り囲まれたのか分からなかった。後に高校生の口論が発端で、ソロ市街で反華人暴動が起きたと聞いた。暴行を受けたわけではない。だが差別される痛みをこの事件で知った。
選挙戦でジョコウィの出自をめぐる誹謗(ひぼう)中傷が飛び交った時、リヨはジョコウィや母のスジアトミ、叔父ミヨノらとジョコウィの父や祖父が眠る墓地を訪れ、献花した。
■週刊誌テンポを愛読
学生時代にジョコウィは政治や社会問題に関心を持つようになった。こづかいで毎週、週刊誌テンポを購入し熟読した。入学した80年当時、スハルト政権に対する抗議運動が活発化。「プティシ50」(50人グループ)がスハルトを非難する声明を発表して物議を醸した。これを主導したのが、ジャカルタ特別州知事を務めたアリ・サディキンやナスティオン将軍、フグン元国家警察長官ら有力者だった。
学生運動も盛んになったが、ジョコウィは学生組織には加わらなかった。だが首都ジャカルタの基盤を築いたアリ・サディキンへの敬愛を公言。ジャカルタ特別州の知事選出馬の際、息子のボイ・サディキンは参謀を務め、現在、次期副知事候補に名前が取りざたされている。(敬称略、配島克彦)
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