【ジョコウィ物語】(5)進学校受験に失敗 失意からロックに夢中
ソロ北部を流れるソロ川支流のぺぺ川河川敷の家から、ジョコウィは小学校へ通った。ソロ最大のバスターミナル・ティルトナディの南隣にあるティルトヨソ第111小学校。ソロ周辺の村落から流れ込んだ人々が暮らす住宅密集地の中にある。アティ・ドウィ・アストゥティ校長(48)は「昔からバスターミナル周辺で働く日雇い労働者が多い地域」と話す。木工職人の息子ジョコウィは出自も社会階層も多様な同級生と一緒に机を並べた。
成績は優秀だった。中学校はマナハン競技場前にある名門校、スラカルタ第1中学校に入学。ソロ市役所の役人になった同級生も多い。
■無口でおとなしい生徒
同じクラスだったソロ市役所職員のナニック・マヨル(53)は「無口でおとなしい生徒だった。ジョコウィが市長になった時『あんな人いたっけ?』という同級生が多かった」。ソロ市議会事務局長などを務めてきたトト・アマント(52)は、家が近くだったこともあり、ジョコウィと一緒に登下校した。「さあ行くよ」。ジョコウィが運転する自転車のサドルに乗り、10分ほどの距離を行き来したが、お互い無口であまり話はしなかったという。
勉強熱心な中学生だったが、第一志望のスラカルタ第1高校の受験に失敗した。「あの時の落ち込みようといったらなかった。ずうっと部屋にこもりきりで、食事も手につけようとしない。話し掛けてもむすっとしたままだった」。
母のスジアトミは兄ミヨノらにも相談し、ソロ南隣のスコハルジョ市の高校にいったん入り、そこから第1高校へ編入するよう勧めた。だが、ジョコウィはそのような方法で入学することは拒んだ。ミヨノ宅で一緒に暮らし、同じ小中学校に通った同い年のいとこ、トリヨノが第1高校に合格したこともショックだった。
1977年、新設直後の第6高校に第1期生で入学した。当時ソロに高校は5校しかなく、第6高校は教育文化省が設置した実験校だった。ジョコウィは入学後、チフスにかかり2カ月ほど休学するなど、不安定な日々を送る。
多感な時期を迎えたジョコウィは、この頃からロックにのめり込んだ。レッド・ツェッペリンやディープパープル、ブラック・サバス。ヘビーメタルやハードロックを好んだ。
下校途中、ソロのロックバンド「トレンチェム」の練習風景を見学するのが日課になった。後の実業家スティアワン・ジョディ(65)のグループで、歌手イワン・ファルスや詩人レンドラとバンドを組みヒット曲を連発した。スティアワンはインドネシア最初の民族主義団体「ブディ・ウトモ」の生みの親であるワヒディン・スディロフソドの孫だった。選挙戦では当時の「熱心な見学者」の一人、ジョコウィの支援を続けた。
■第6高を首席卒業
受験失敗のショックは1年ほど続いたが、2年生に進級するころから猛勉強を始める。理系コースを選択。3クラスの上位に食い込むようになる。「最も手ごわいライバルだった」。同じく理系を選んだヌルトゥドゥ(53)が振り返る。後に木材の輸送に使う梱包資材を納入するなど、ジョコウィとは仕事仲間として付き合いが続いている。
ジョコウィは主席卒業を果たし、ジョクジャカルタの難関、国立ガジャマダ大学(UGM)林業学部に合格する。ソロ市長時代には母校・第6高校の同窓会を立ち上げ、校舎を改修した。政府高官や国営企業幹部になった同級生もおり、同窓会で顔を合わせては旧交を温めている。(月曜日掲載 敬称略、配島克彦)
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