農業、家族養うのがやっと バトゥで生きる「父は偉大」と息子 小野盛さんの半生
元残留日本兵で25日に亡くなった小野盛さんは、戦後の半生を東ジャワ州バトゥ市で暮らした。インドネシア人として生き抜くことは苦難に満ちていたが、家族をもうけて地元に根付いた。次男のエル・スヨノさん(47)に小野さんの半生を聞いた。
1945年8月、小野さんは日本のポツダム宣言受諾をインドネシアの地で知った。同年の12月に第27旅団司令部参謀部を離脱し、インドネシア独立戦争に加わることになる。ジョクジャカルタでインドネシア新兵の教育や演習指導にあたった後、各地の戦闘に参加し、47年12月にはインドネシア軍中尉に任命された。
48年9月には戦闘中に手榴弾を受けて左手を負傷。最初は村の診療所で指だけ切ったが、治療の不備で左腕を切り落とした。オランダが攻勢を強めており、十分な治療を受けられなかったという。
家族にも独立戦争当時の状況を多くは語ることがなかった小野さん。だが、当時の状況をエルさんに「インドネシアに独立を約束した日本が先に負けておいて、おめおめと日本に帰ることなどできなかった。戦闘で左手を失ったが、独立戦争に対する気概は変わることはなかった」と語ったことがあるという。毎年独立記念日の前後にテレビで当時の映像が流れると、懐かしそうに当時のことを話すことがあった。
50年6月にバトゥ市出身のダルカシさんと結婚。同市で農業を始める。妻の両親から譲り受けた家の近くの畑で、朝6時から12時頃まで働き、昼食後は日没まで働いた。リンゴ栽培をはじめ、さまざまな野菜を耕作していたが収入は少なく、家族を養うのがやっとだったという。1年で休む日は数えるほど。家族の暮らし向きは厳しいままだった。
「残留日本兵の真実」(林英一著)で小野さんは「戦争の時は自分のことだけ考え、死ぬ覚悟で戦闘に身をていしていればよかった。だが、農業をはじめて家族を養うようになってからは本当に苦しかった。戦争どころの苦労ではなかった」と話している。
独立戦争を闘った兵士という肩書きも、戦後数年たてば効力も薄らぐ。「ジャワの田舎町であるバトゥで農業で生計をたてて暮らすということは想像以上に難しいことだった。文化風習が違う地元の人々に受け入れられるようにすることに苦心する日々であった」とも語っている。
■ジャカルタへ単身赴任
62年6月、正式に念願のインドネシア国籍証明書が発行され、17年間の無国籍者から解放されている。
66年には、収入を増やすためジャカルタで日本商社のジャパンインターナショナルに勤め始める。単身赴任で働いていた小野さん。忙しいと1年に1回、多くても3カ月に1度帰郷して家族と会うのがやっとだったという。
エルさんは、「一年のうちでも父と会えるのは数日だけで、あまり父と遊んだ記憶はない。だが、真面目で家族を養おうと懸命に生きる父の背中を見て育った。偉大な父親だった」と話す。
73年にジャパンインターナショナル倒産に伴い、日本商社のフジ・インターナショナルに入社して養鶏業に転身した。74年には養鶏の講習で32年ぶりに故郷の北海道に帰省している。
84年に同社が生産品輸出をするために設けた出張所の所長になるなど、ビジネス界でも活躍し、90年に同社を退社した。
■晩年も日本忘れず
退社後は、バトゥに帰り恩給生活を送った。毎州金曜日、近所のモスクでの礼拝は欠かすことがなかったという。葬儀には近隣の住民が訪れ、男女に分かれてコーランを読み小野さんを弔った。バトゥではインドネシア人として、ムスリムとして受け入れられていた。
恩給生活に入っても、畑仕事は小野さんの日課だった。家族が食べる分の野菜は小野さんが作っていたそうだ。家では海外向けのNHKを見て日本を忘れることはなかったという。
小野さんは「我がいのち 困難の道を 延ぶれども 老えし心は 故郷を偲ぶ」という歌を詠んだ。バトゥの地で、雄大な自然に囲まれながら老後を過ごした。国籍はインドネシア人でも、日本人としての心を持ち続けていたのだろう。 (バトゥ市で藤本迅)
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