【ジョコウィ物語】(3)ソロ川の木材の家 開発計画で立ち退き
インドネシアの往年の流行歌「ブンガワン・ソロ」。ソロ東部から東ジャワの穀倉地帯を流れ、スラバヤの海に注ぐジャワ島最長のソロ川を歌ったもの。ソロの作曲家グサン・マルトハルトノが戦前作った国民音楽クロンチョンの名曲として知られ、ゆったりとしたメロディーに弦楽器の軽快なリズムが絡む。
ラジオなどを通じ、当時進駐していた日本兵の心をとらえた。終戦後は日本でも大ヒット、南国歌謡ブームを巻き起こした。日本ではかつて最もよく知られたインドネシアの歌、日イ友好の象徴でもある。
ジョコウィが生まれ育ったのはブンガワン・ソロの西約5キロ、本流から西へ流れていく支流ペペ川の河川敷だ。
10代で結婚した父ノトミハルジョと母スジアトミは、スジアトミの父と兄が拠点にしていたソロのスランバタン地区で製材の家業を手伝い始め、同地区に小さな民家を借りていた。1961年6月21日、第1子のジョコウィがギリンガン材木市場近くの病院で生まれると、ペペ川付近へ移転。河川敷を転々とした後、60年代中頃に材木市場の裏に落ち着く。ここが「庶民派ジョコウィ」の記憶の原点になった。
「質素な家だった。でも削った材木を置ける場所もあったし、材木市場にも近かった」。スジアトミは結婚して何とか自立しようと苦心していた当時を述懐する。古都ソロにも周辺各地から仕事を求めて人々が少しずつ流入し、河川敷や市場周辺に集落を形成し始めていた。
流域に集まったのは近郊の森林で伐採された木や竹を切り刻む業者たち。スジアトミは「夫は近所の同業者と木材を探しに行った。私も一緒にノコギリで角材にする仕事を手伝った」と苦労を語る。数年掛けて徐々に製材の機械を入れて規模を拡大していく。職人を数人雇い、発注者の要望に応じて窓枠や柱、家財道具用の材木にする仕事も手掛けるようになる。
床にはノコギリが置かれ、材木が積まれている家。壁はニッパヤシで編まれ、近所の人と家族同然の付き合いだ。壁一つ隔てて住んでいたスタルティ(63)は「よく母と一緒にジョコウィの子守をした」。ジョコウィより10年ほど年上だったこともあり、ジョコウィや妹たちの面倒をみていたという。
■アヒルの卵探し
近隣には子どもたちも多く、夕方まで河川敷で遊んだ。今も同地区に住み、洋裁店を切り盛りする幼なじみのスパルト(53)は「よくジョコウィと川で遊んでいた。河岸でアヒルの卵を探したり、砂遊びをしたり。ビー玉やパチンコでもよく遊んだ」と話す。
洋裁店はジョコウィの旧家から数十メートルの交差点にある。今もジョコウィとの交流は続き、ジャカルタ特別州知事選、大統領選前には、ジョコウィがスパルトの店を訪れ、「チェック柄のシャツを作ってほしい」。ジョコウィ本人や支持者のユニホーム作りに精を出した。「選挙特需」を旧友にも分かち合いたいとの配慮だったという。
ギリンガン市場に1960年代の末期、長距離バスのターミナル建設計画が浮上。河川敷の集落も撤去されることが決まった。一部はぺぺ川の北側へ移転し、今でも材木や竹を扱う業者たちが軒を連ねている。
ジョコウィ一家は市役所から代替地を指定されたが、家を建てる資金がない。約1キロ離れた大通り沿いに家を構えていたスジアトミの兄、ミヨノの家へ引っ越すことになった。
立ち退きについて、昨年公開されたジョコウィの伝記映画では「市当局による強制撤去の犠牲者」として描いた。だが当時の状況を知るミヨノは「強制撤去ではない。劇的に演出しようとして事実に反する描写になった」と指摘する。
ジョコウィと3人の娘を抱えたノトミハルジョとスジアトミ夫妻は河川敷を離れ、新婚当時に世話になったスジアトミの父ウィロルジョ、兄ミヨノと再び合流し、事業を拡大していく。この叔父宅から、ジョコウィは小学校に通った。(敬称略、配島克彦、写真も)
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