「福島は必ず乗り越える」 ハッサンさんがエール 戦時に留学、広島で被爆
戦時中の1944年4月、南方特別留学生の第2期生として日本に派遣されたハッサン・ラハヤさん(88)。広島文理科大学に在学中の45年8月6日、故アリフィン・ベイさんとともに被爆した。その後、65年以上にわたり、日本とインドネシアの関係促進に努めてきたハッサンさんは、今年3月の東日本大震災による福島第1原発の放射能漏れ事故について、「広島も原爆が落ちた後は『75年間は草木も生えない、人も住めない』と言われたが、今では良い街になった。広島が乗り越えられたのだから福島も乗り越えることができる。日本自身も回復しなければならないという精神がある。きっと復興できる」とエールを送った。
原爆投下当時、ハッサンさんはベイさんと二人で大学の教室で物理の補習を受けていた。ハッサンさんは爆風で天井まで飛ばされ、授業をしていた先生はその場で亡くなったという。
四四年から四五年三月にかけて国際学友会(現・日本学生支援機構)で日本語を学んでいた際、東京大空襲も経験していたが、それとは比べものにならないくらいの衝撃に、最初は何が起こったのか分からなかった。ベイさんとともに壊れた窓から教室を出て、同僚の留学生を見に行くため、興南寮へ戻った。建物という建物はつぶれ、道には血を流したり、泣き叫んだりする人ばかり。車や路面電車の中には「助けて!」「水をください」という人がたくさんいたが、他人を助けるほどの余裕はなかったという。道ばたには無数の死体が見えた。
興南寮で同じインドネシア出身のシャリフ・アディル・サガラさん(故人)を助け出した。そうするうちに、街の至るところで火の手が上がり、寮の前の元安川に飛び込んだ。川に架かっていた萬代(よろずよ)橋の橋桁の下に隠れ、六時間ほど過ごした。燃えゆく炎は川も覆い尽くしたが、その度に川の中に潜って難を逃れた。
その後大学へ戻り、野原で一夜を明かした。これからどうしていこうかと途方に暮れた。近くで見つけたさつまいもとじゃかいもを蒸かして食べて飢えを凌いだ。翌日になると大学の職員が食事を持ってきてくれた。
遺骸の収集など街の復旧作業に取りかかっていた軍人グループの一人が「日本に勉強をしに来てくれたのに、このような被害に遭ってしまい、相すみません」と友人の家を紹介してくれた。隣組の人たちが食事の配給をしてくれたりしてとても親切だった。その後、国際学友会の先生の引率で京都を経由し、東京に避難した。ハッサンさんが被害を受けたのが原爆だということが分かったのは、その後、しばらく経ってからだった。
日本に留学したばかりに、数奇な運命をたどることになったハッサンさん。「日本に恨みはない。僕は、日本人と日本政府に感謝している。日本は僕の第二の故郷」と力を込める。
終戦後は周りから「帰ろう」という声が上がり、インドネシア政府からも「今の日本には外国人を世話する力もないから早く戻りなさい」と言われたが、「せっかく日本に来たから勉強を続ける」と、進駐軍の下で、大きな火薬庫があった逗子市池子に三年間ほど勤務してお金を貯め、慶應義塾大学法学部政治科で五一年まで学んだ。
「日本を愛しているから、インドネシアでダルマ・プルサダ大学を作り、日本語の普及を目指した。現天皇陛下が皇太子の時、大学を訪れ感銘を受けていた。より多くのインドネシア人学生を日本へ、日本人学生をインドネシアへ留学させる必要がある。インドネシア人は日本で科学技術の最先端分野を学び、日本人学生ももっと多く派遣されることを望んでいる」
ハッサンさんは、日本で起きた原発事故についてどう思っているのか。
「技術力がある日本でもこのような事故が起こる。インドネシアの原発推進については反対だ。原発以外の発電所を建設するべき。私は原爆を経験した。チェルノブイリのようなこともあった。インドネシアは日本の教訓に学ばなければならない」
◇ハッサン・ラハヤさん
一九二二年十二月二十二日、西ジャワ州ボゴール生まれ。八十八歳。広島文理科大学(現・広島大学)、慶応義塾大学で学び、五二年に帰国。海運会社経営などに携わり、七七―八二年に国民協議会(MPR)議員、八二―八七年に最高諮問会議(DPA)委員。二〇〇五年春の外国人叙勲で旭日中綬章受章。元日本留学生によるダルマ・プルサダ大学の創立者の一人。初期には日本の歴史や日本語を教えた。