【2013年を振り返る】社員コラム
■「過大」か「過小」か―上野太郎
「これまでインドネシア経済は過小評価されていたが、この1年ほどは過大評価されている気がする」。金融機関の駐在員の言葉が印象に残っている。
ここ数年、日本でインドネシアの評価はうなぎ上りだ。今年も多くの企業の新規進出や拡張があり、クールジャパンや観光客誘致の活動もかつてないほど活発になった。
とはいえ、必ずしも現地での認識とは一致しているわけではないように思える。
リーマンショック前の「テロ、地震と津波が頻発する怖い国」から「新興国の雄」に躍り出たインドネシア。2億4千万人の人口に広大な国土を有する国は世界の注目を浴び、平均年齢28歳の国民は「明日の暮らしは今日より良くなる」と、消費活動に勤しんでいる。
ビジネスチャンスは無限にあるが、一筋縄ではいかない国でもある。未整備なインフラや依然はびこる汚職、不透明な法運用。問題はまだまだ山積している。
来年は民主化時代に突入してから4回目の総選挙、3回目の直接大統領選がある。独裁政権崩壊直後の熱は失われ、政治への期待感は度重なる汚職事件で低下している。国民は、ソロ市長、ジャカルタ特別州知事として旧態依然の官僚機構に風穴を空けてきたジョコウィ氏に一縷(いちる)の望みを託すが、果たしてどうなるか。
過大か過小かの判断は、10月に就任する新大統領の舵取り次第。さあ、インドネシアの行方を占う大事な1年の幕開けだ。 (編集長)
■富士山で「こんにちは」―配島克彦
「スラマット・シアン(こんにちは)」。富士山五合目の小御嶽神社前のお土産屋。インドネシア人グループを案内して店内に入ったところ、インドネシア語で初老の男性店員に迎えられた。「この1〜2年でインドネシアからの観光客が増えたので、言葉を勉強しています」という。いくつか土産を買い、店を出るときには「トゥリマカシ(ありがとう)」と見送られた。
後日、皇居東御苑の天守閣跡を訪れると、ジルバブ(スカーフ)に大きなサングラスという出で立ちのインドネシア人女性グループに会った。いずれも20代。東京観光を満喫しているようだった。
浅草寺裏の交差点の雑居ビルに入居する「ネコ・カフェ」。室内に放し飼いにしたネコと遊べるという、こぢんまりとした店だが、「インドネシア人グループのお客さんは3組目です」。店主の女性は「東南アジアではタイとかフィリピンのお客さんはいたけど、最近はインドネシアの方も来るようになりましたね」と話した。
これまでもインドネシア人の日本観光に付き添ったことはあったが、これほど各地でインドネシア人観光客の存在を感じたのは初めてだった。
日本政府観光局(JNTO)によると、昨年日本を訪れたインドネシア人は10万人を超えた。今年に入り、その伸び方はさらに勢いを増している。急速に盛んになる人と人の交流。日本とインドネシアを結ぶ新たな出会いを伝えていきたい。(副編集長)
■パレパレの思い出―臼井研一
昔話で恐縮だが、初めてインドネシアに来たのは25年前。私は毎日新聞の社会部記者だった。
ODA(政府開発援助)の医療援助の取材。ウジュンパンダンで通訳と合流し市内の病院へ行くと、日本から来たレントゲン装置が梱包されたまま庭で雨にぬれていた。男性医師は「マニュアルが日本語だった」。いわゆるターンキー渡しで、使用法を説明したと思うが。
ジープを借りて北上、パレパレの小さな病院を訪ねた。驚いたことに院長は女医さん。がらんとした手術室の隅で、最新の手術道具と照明の一式がほこりをかぶっていた。「使う医師がいない」
夜、民宿で寝ていると太ったトカゲのようなものが落ちてきた。朝食のトーストには砂糖が厚く塗ってあった。やっと半分食べた。昼食に入った食堂ではアジのような魚をぶつ切りにし串に刺して炭火で焼いていた。香ばしい匂い、うまかった。魚の塩焼きは南の島から日本に伝わった!?。
昼下がりの強い日差し、鶏がコッココとえさをついばみ、水田も濃い緑も細い電柱も伊豆の閑寂な漁村のようだった。
ジャカルタに戻り、JICA(国際協力機構)事務所に山本海徳所長を訪ねた。所長は機材が無駄になっていることを認めた上で援助の困難を懇切丁寧に説いた。同情や正義感だけで物事が進まないことはわかる年だったが、それでも勉強になった。
帰国後、レントゲンを納入した島津製作所に電話すると「英文マニュアルも間違いなく入れた」。
先月から編集部で新聞づくりを手伝ってます。(上級顧問)
■ロンボクの「資源の呪い」―吉田拓史
レバランに訪れたロンボク島。バスが独占的に客をとる区間で、こっそり客をかすめるタクシーの運転手Aさんがユニークだった。これでもかと観光街スンギギへのホテル投資を迫る。「インフェストール(投資家)がバンクルプト(破綻)した、建てかけのホテルがある」。Aさんの鼻息が荒いのも当たり前。スンギギ付近はタナ・ウマス(宝の土地)と呼ばれ、地価はうなぎ登り。どこからともなく現れたデベロッパーが甘言を弄すると先祖から受け継いだ土地が次々に投げ売られるそうだ。
あぶく銭の使い途は誤る人は多い。スンギギ付近のカラオケだ。ホテル、ヴィラと同じ外国資本が回し女性はジャワ島から来る。金を使い果たすと土地はなく生活の基盤ががたがた。「これが最近の島の問題なんだ」。
そのままAさんの自宅に行く。奥さん、友人の男性もまたリゾート開発されてない南部の海岸に先んじてホテルを建てないかと誘う。最近できた国際空港の建設予定地をめぐり島内5県に政党が絡まり組んずほぐれつの綱引きをしたなんて話も聞けた。なるほどお隣のバリは観光に公共事業にぼろ儲け。指をくわえて眺めてきたが「バリはもう満杯だ。次はロンボクの番だ」というわけだ。
この話がこの国の問題を浮き彫りにしている気がする。(観光)資源が突然与えられても目先の金にくらんで未来への方策を打てない。あぶく銭は腐敗の温床になり、いいところ(ホテル、カラオケ)は外資と競い合えない。あなたの身近にもこんな話がありませんか?(記者)
■新聞記者である理由 ―上松亮介
「あなたに勇気づけられた」。取材対象者である性同一性障害者の人権活動家、マミ・ユリさん(53)からこう声を掛けられた。思いも寄らない言葉に驚いた。自分の記事が結果的に当事者を励ましていた。
5月1日、南ジャカルタのNGO事務所。ユリさんは東京都世田谷区議の上川あやさん(45)と向き合っていた。2人に共通するのは、ともに性同一性障害があるということ。
上川さんはインドネシアに来る前、ユリさんに関する筆者の記事を読んでいた。国際交流基金主催の講演会に出席した翌日、当事者らと直接話したいという思いでマミさんと会った。
英語が得意でないからか、緊張しているのか。懇談中、ユリさんは口数が少なかった。だが、日本の社会にも性同一性障害に対する冷たい視線があることを知る一方、自分と同じ性同一性障害者として声を上げた上川さんの存在に励まされていた。
ユリさんは今も性同一性障害者の生活を改善するため、奔走している。4月から始まった社会省の支援に加え、ジャカルタ特別州からの援助も取り付けた。
性同一性障害者の問題を知りたい。無我夢中に取材・執筆した記事。ジャカルタでしか読まれていないと思っていたものが日本で読まれ、その当事者に会いたいという人がいたことがただうれしかった。
性同一性障害者のことを哀れに思い、何とかしようと書いたわけではない。だが、知らぬ所で当事者と読者をつないでいた。 (記者)
■家を建てるおばあさん―高橋佳久
80歳を超えるが、若い頃は「家を建てる」というなんともパワフルな趣味を持っていたおばあさんと仲良くなった。メンテンにあるオランダ統治時代の住宅に住んでいるが、現在の家屋も2階を増築したときは知り合いの大工に手伝ってもらいながらも自分でやり遂げた。どこにいい建材があり、いまやそこら中にある観葉植物店も優良店を知っている。
朝か夕方にはパサールやモールに買い物に出かける。メンテンの周辺では開発が盛んだが、おばあさんの生活は昔から変わらない。起きて、庭の手入れをし、買い物にいって食事をして眠る。あまり遠くに行くのは好きではない。ただの老人の生活だと言われればそれまでだが、四季がなく、変化を感じにくいジャカルタの生活に少しうんざりしていたところに、熱帯気候を楽しむことはこういうものかと気づかされた。
おばあさんの家にはエアコンがない。ジャカルタの風や空気を感じれば十分という。一年中暑い国で外の空気を大切にする生活は多くのインドネシアの人の共通感覚であると最近知った。おばあさんの家にも大きな中庭があり、大雨の時はリビングに降り込んでくることもあるのだけれど「部屋の奥に避難すれば大丈夫」という。
しかし、閑静な住宅でも最近は車がよく通るようになり、においが悪くなった。「最近では雨が降ったほうが空気がきれいになった気がする」。なるほど、渋滞の排気ガスが雨のあとのすがすがしさを倍増してくれているのだなと気がついた。(記者)
■あるべきだった公式説明―道下健弘
手元に40年前の新聞の切り抜きを集めたスクラップブックがある。1975年7月の日本の全国紙は、日本とインドネシア共同のアルミ生産「アサハン・プロジェクト」の調印を伝えている。
「最大の国家的プロジェクト」と称されたその合弁契約は、今年10月末に期限を迎えた。
売却額をめぐって日イ双方の折り合いがつかないまま月が変わると、インドネシア側は突然記者会見を開き、「全資産の国有化」を発表した。東京の省庁、会社に問い合わせても「結論が出ていないので話せない」の一点張りで、何の公式発表もなかった。
インドネシア政府の発表直後、エネルギー鉱物資源省で会った地元経済紙記者が「日本側企業連合の広報担当に接触するにはどうしたらいいか」と尋ねてきた。一方的に国有化を宣言するイ政府と対照的に、貝のように口を閉ざす日本側の態度。地元メディアだけでなく、北スマトラの生産現場の従業員ら、多くが困惑していた。
交渉ごとだから、詳細を明らかにできない事情は分かる。それでも、契約が切れたという事実は動かせない。日本側はせめて、何らかの説明をするべきだった。
先のスクラップ、少しページをさかのぼれば、74年1月の反日暴動の記事につながっている。期限切れからしばらくして、ある地元紙は「マラリ40周年を前にしたイナルム(合弁会社の略称)の皮肉」の見出しを打った。この記事も何十年先まで残るのだろうか。(記者)
■情報の偏り―堀之内健史
学生だった3年ほど前、講義でインドネシアについて受講者が設問に答える機会があった。「大統領の名前は?」「植民地にしていた国は?」という問い。受講者は少なくとも60人おり、確か正答者は3人、20人ほどだった。大統領名は記述式、国名は選択式だった。
もちろん正答者に私は含まれていた。それはすでにインドネシアでの記者活動に興味を持っていたからだ。その数カ月前にあったら、恥ずかしながら大統領は答えられなかったと思う。
今考えると、これは衝撃的なことだ。日本との歴史について必ず習うインドネシア人にとってもそうではないか。
日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)が援助国と非援助国から対等な関係へ歩みだした。だが現時点では、お互いの情報量があまりにも偏りすぎている。
インドネシアには日本の情報があふれている。アニメも漫画も食もある。日本と何の関係もない地元記者の友人も、ドラマ「半沢直樹」をリアルタイムでネットで観て、興奮していたほどだ。
一方、日本人にインドネシアを尋ねても、3年前の私や他の学生のように出て来るものは少ない。
相手を知ることは関係向上に欠かせない。日本のクールな文化を伝えることは重要だ。それと同じくらい、相手への理解を深めることも大事だといえるのではないか。
その重要な責務を担っていると心に刻んで、取材・執筆をしていきたい。 (記者)
■スンダクラパの涙―小塩航大
中央ジャカルタ・メンテンにあるスンダクラパ・モスクにはイスラムを学ぶ外国人の姿がある。ペチ(イスラム帽)を被ったイギリス人、ムスリム関連の本を読むシンガポール人。
ある日、結婚を機に宗教をキリスト教からイスラムへ改宗するフィリピン人の女性と出会った。結婚相手の男性がムスリムで、改宗を求められた。男性の両親から「ムスリムの家族の一員になってほしい。ムスリムの習慣については私たちが助けるから」と言われたのが心に響いたと話す。
説法師の下で礼拝の仕方やコーランの暗唱を習うが、戸惑いの連続だ。今まで使用したことがない白いベールを被っての外出、1日5回の礼拝など慣れるまでには時間が必要という。
結婚式は一刻と近づいていた。迎えたシャハーダ(信仰告白)の日。アッラーへの信仰を告白すると晴れてムスリムになる。
女性は白いベールを被り緊張した様子。説法師から信仰の宣言を求められると、母親の目を見つめ涙を流した。手は震え、唇は乾いていた。アラビア語の発音の言葉につまりながら、告白を終えると母親に「今までありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。「ムスリムとしての義務を果たしたい」。女性の目は前を向いていた。
改宗するには覚悟がいる。今までとは違う慣習や考え方を受け入れ実践する。良きムスリムになるためには、日々の努力の積み重ねが必要だ。この女性の決断と実践を見習い、信仰心の深化に精進していきたい。(記者)
■小さな事業、大きな貢献―宮平麻里子
最近、仕事帰りに屋台で飲む「スス・ジャヘ」を気に入っている。ショウガの煮汁に、コンデンスミルクを加えた飲み物で、ほんのりした甘さとピリッとしたショウガの辛みがよく合う。
毎夜、その屋台が来てプラスチック製のいすを並べれば、道路脇の大きなバニヤンの木の下は、オジェック(バイクタクシー)の運転手たちや近隣住民の憩いの場になる。皆の笑顔を眺め、のんびりした雰囲気に浸ると、疲れを忘れるから不思議だ。
インドネシアで記者をしていてつくづくありがたいのは、つたないインドネシア語の質問にも快く答えてもらえることだ。物静かで優しい微笑みの店主のおじさんの手が空いたのを見計らい作り方を尋ねてみると「20リットルの水に1キログラムのショウガを入れて、2時間煮込む」と快く教えてくれた。人気の品を提供する誇りと自信を感じた。
連日のように報じられる汚職や渋滞、経済格差など山積みの問題の報道に接していると、私まで途方に暮れる気にさせられる。それでも、日常の中にあふれるインドネシアの人々の優しさや独創性、少しの困難は笑い飛ばすある種の諦めの良さ、地域社会の絆を垣間見るたび、良い方向に向かうと思える。
「スス・ジャヘ」のおじさんは、国内で約5600万に上り13年のGDP(国内総生産)の約57%を占めたという中小・零細事業者の一員だ。経済発展はもちろん、社会に多様な貢献をするそれらの人々への支援が進むよう願っている。(記者)
■馴致されざる文化―田村隼哉
「松潤と結婚したい」、「小学生の頃は『タキツバ』、今は『キスマイ』が好き」。インドネシア人女性が日本の男性アイドルを語る口ぶりにはいつも驚かされる。タクシーに乗れば運転手が「私は松田聖子と宇多田ヒカルが好きだ。君はどうだ」と尋ねる。
当地での日本のポップカルチャーの浸透度は計り知れないが、「クールジャパン」の輸出に成功したと喜ぶのは早計だ。「文化の所有権を宣言し、それに伴って『日本のコンテンツ』『日本のソフトパワー』、さらには『クールジャパン』であるとして、国際関係の枠組みに取り込み、馴致(じゅんち)しよう」(白石さや『グローバル化した日本のマンガとアニメ』)とする企みとは無関係に、彼女らはアイドルに恋して甘い空想を描いてきた。
5月、南ジャカルタ・ブロックMで開かれた「縁日祭」でコスプレ大会が催された。参加者がテレビゲームやマンガの登場人物に扮して寸劇を披露する。精巧な衣装や、ゲーム内の戦闘をていねいに再現した寸劇に情熱と創意工夫が感じられる。ある入賞者は半年間の準備が実を結んだと喜んでいた。
彼らは「かっこいい日本文化」の単なる消費者ではない。手作りの衣装や寸劇でインドネシアのコスプレ文化を生み出している。
インドネシアの人々は熱帯の多様性のなかで濃厚な伝統文化を育んできた。いつの日か世界が驚き熱狂するようなポップカルチャーが彼らから発信されることを願ってやまない。(記者)
■じゃらんじゃらん―山本康行
ドアの向こう側からピアノの音色と歌声が聞こえてくる。ジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)の会議室。12月のコンサートを控えたJJC女声コーラス部「コール・ムティアラ」が練習を重ねていた。
個人部会フェスティバルの特集取材で部員の方と知り合ったことがきっかけで、何度か練習にお邪魔した。一年の集大成であるコンサートに向け、歌に熱中する主婦たち。プロさながらのピリピリとした空気が漂っていた。「みんなに歌声を聴いてもらいたい」
私は紙面「じゃらんじゃらん」を担当している。毎日、メールやファクスで送られてくる日本人会や個人部会からの懇親会やゴルフコンペなどの告知や報告を、電話などの取材を通じて翌日以降の紙面に反映させるのだ。
そこには日本へ帰国する人を温かく見送ったり、同じ県出身の人たちが、故郷から遠く離れたインドネシアで絆を深めたりするドラマがある。電話を切るときに「今度、会にお邪魔してもよいですか」が口癖になった。
以前にも増してさまざまな企業が日本からインドネシアに進出している。それとともに単身者や家族連れの日本人が確実に増え続けている。JJC個人部会や各地の日本人会は今後も盛り上がりをみせていくだろう。
「来年の2月、取材にきてもらえますか」。先日そんな電話でのやりとりがあった。来年もまた日本人たちのドラマに立ち会うことができる。(記者)
■訪日誘客ブーム到来!?―太田勉
今年は、愛媛、秋田、岐阜、山梨、富山の各知事が、インドネシアを訪問、観光誘致を中心としたトップセールスが相次いだ。ここ数年、地方自治体や関連団体の訪イも激増、誘客イベントへの参加、旅行代理店への売り込みなど、積極的なアプローチが行われている。
2011年6月、震災直後の訪日旅行者が激減した時期に大阪府知事、市長が次々に訪イ。誘客プロモーションに合わせ、ガルーダ航空に直行便を直談判した。もちろんガルーダ航空なりの採算勘定があっての結論と考えるが、根気強い交渉の末、2年5カ月後の今年11月、直行便就航を勝ち取った。
当時、市長に同行していた事務方の幹部に、この時期の観光誘致は無理があるのではと聞いた。「この国が大きなマーケットに育つのは、誰の目にも明らか。大阪は前のめりにインドネシアを攻める」との返答であった。今の状況をみると、そのスピードと実行力にただ感服する。
インドネシアは昨今の中間層の拡大で、海外旅行が多くの人の手の届くものになり始めた。しかし、現時点では、訪日旅行者数全体の1.2%に過ぎず、開拓の余地は大きく、ポテンシャルは高い。誘客プロモーションを考える上で、今の勢いを一過性のブームで終わらせることなく、腰を据え長期的に進めてほしい。インドネシアの人に日本各地の美しい風景、おいしい食べ物、そしてたくさんの素晴らしいものに触れてほしい。頑張れ、日本の地方自治体。来年も精一杯応援していきたい。(営業・事業統括部長)
■失ったもの、得たもの―清水淳平
今年一年を振り返るため、真っ黒になった手帳をめくり、ある時期を境に白紙のままになったページを見て、夏にかばんごと貴重品の一切合切を盗まれたことを思い出した。改めて後悔の念が頭をもたげると同時に、一人の女性の顔が心に浮かんだ。
首都中心部のホテルで開かれた日イの経営者が集まるビジネス交流会。自席にかばんを置いたまま参加者と活発に情報交換していた最中、窃盗団の被害に遭った。防犯カメラの録画映像では、見たくもないその鮮やかな犯行を見せつけられた。
まず、3人組の男がかばんを挟むように両側へ座り、周囲をうかがう。十数秒後に、遅れてきた男が待たせて悪いというそぶりでかばんを背にして座り、辺りを見回す。誰も駆け寄ってこないことを確認すると、そっとかばんを足下に移動させ、もう一度周りを確認し、そっとかばんの中を見る。そして4人同時に立ち上がり、そのままかばんを持ち去ってしまった。
忘れられないのは、一緒にその映像を見ていたインドネシア人経営者の言葉だ。遅くまで一緒に熱心にかばんを探してくれたのでホテルのスタッフかと思っていたが、交流会の参加者で「こんな社会が恥ずかしい。インドネシアがこんな人たちばかりだと思わないでほしい。私は自分の事業で世の中を変えていきたい」と目に涙をためながら訴えた。こうした人に支えられ、インドネシアは力強い発展を遂げているのだと実感できたことが救いだった。 (営業・事業部次長)
■ジャカルタでの12年―坂田恵愛
ジャカルタで生活を始めて1月で12年になる。「明日のことなんて分からない」と言うが、12年もいるとは予想もしなかった。「インドネシア学科卒」と履歴書に書いてあっても、就職してろくに言葉ができないというのは恥ずかしく、仕事で活かせるようにしたいと考えていた。そこで留学をした。
インドネシア大学の日本文化センターで読んでいたじゃかるた新聞。その1年半後、そこで仕事をすることとなった。4月で10年になる。
12年の間に何が起きたか。ユドヨノ大統領の就任、アチェ、ニアスの地震・津波、バリやジャカルタでの爆弾テロ、ジョクジャの地震、ムラピ山の噴火など。一方、ジャカルタや近郊都市では、ショッピングモール、アパートメント、高速道路、MRT(都市高速鉄道)と開発が進んでいる。
人々の暮らしも変わった。例えば、携帯電話。自分がここに来た当初、誰もが持っているものではなく、ワルテルという公衆電話屋が町のあちこちで見られた。トランスジャカルタが路線を拡大しているが、メトロミニやコパジャ、アンコットはまだ元気に走っている。時間が経つのは、あっという間だとつくづく思う。
日頃の業務に忙殺され、心に余裕を持てるときが多くはない。喫茶店で一休みしようが、考えていることが仕事のことでは休みともいえない。1年が終わろうとするときにその年のことを、またここでの生活のことを年末年始のわずかな休暇で顧みようかと思う。(営業部員)
■15年目を振り返って―石垣良太
2013年11月にじゃかるた新聞は、創刊15周年を迎えた。紙の新聞がなくなると言われる中、入社してからの3年間、休みなく新聞の発行に携わり続けることができている。
これも15年間じゃかるた新聞を支え続けてきてくださった読者の方々と広告主様のおかげだと改めて感謝している。
一方で、在留邦人向けの情報は格段に増えた。
知人が情報発信するツイッターやフェイスブックなどのSNSは、速報性があるだけでなく、画像や感想が発信者の人となりを表していて、それだけで面白い。
また、編集方針の異なるフリーペーパーも、各所に創意工夫があり、紙のメディアを作っている人間として、学ぶところが多く、読み応えがある。その他、インドネシア情報まとめサイトやポータルサイトも充実している。
インドネシアで働く在留邦人として、無料で得られる現地情報が増え、うれしい限りだが、同じメディア業に関わる身としては、頭が痛い。
10月に発表された外務省の海外在留邦人数調査統計によると、インドネシアの在留邦人数は過去最高の1万4720人。さらに拡大していくことが予想される邦人社会。現地情報へのニーズはますます高くなってくる。
読者のニーズに合わせた商品形態や、より良いサービスをこれからも提供していけるよう、あぐらをかくことなく1人でも多くの読者に声に耳を傾けていきたいと思う。(営業部員)
■必要な心の余裕―金城利奈子
ジャカルタに来てから早3年が経とうとしている。季節感のないジャカルタでの3年間は本当にあっという間だ。文化も生活環境も食生活も全く異なるジャカルタでの生活に3年も経てば慣れてきていると思っているが、同時に最近は忍耐力というか、心の余裕が必要になってきたとも感じる。
移動手段としてタクシーをよく利用するが、道や建物の名前を詳しく把握している運転手はわずかであり、ごく一部の有名なモールや建物以外は分からないというのがほとんどである。道が分かる人に出会うのはラッキーで、分からない人に出会うことが普通だ。
つい1、2年前まではそのような運転手に出会っても、まぁ仕方ないなと思っていた。しかし、最近は自分自身がここの地理を理解しているし、慣れてきているせいか、何でこのくらいも分からないのかと憤りを感じることがよくある。ここはインドネシアで日本の常識とは違うというのは十分承知しているのだが。タクシーでの例をはじめ、最近は自分自身がここの日常における些細な部分にイライラしているというのをよく感じる。
しかし決してインドネシアが嫌いになっているわけではなく、恐らく変わりゆく部分と変わらない部分に戸惑っているのかもしれない。インドネシアの生活に慣れたとはいっても、まだまだ理解と忍耐が必要であると感じた。今年は体調を崩すことはよくあったが、来年は体調管理にも気を付けて、心の余裕を持ちながら頑張りたい。(営業部員)