「奥行きある付き合いを」 「日イが強み生かす時代」 インドネシアと付き合って40年 退官の城田総領事
駐デンパサール総領事の城田実さん(63)が退官となり、23日に帰任する。1973年の入省以来、語学研修先のジョクジャカルタを含め、ジャカルタ、スラバヤ、メダン、バリで25年超の駐在歴を持ち、40年にわたり、インドネシア情勢や日本との関係をつぶさに観察してきた。近年、新興国として飛躍するインドネシアと日本がどう接していくかについて、「インドネシアの人はとても『察し』が良く、ごまかそうと思うと分かる。付き合うんだったら、本当に付き合いたいという気持ちを見せるべき」と力を込めた。
元々、インドネシアに特別の関心を抱いていたわけではなかった。
大学では、国際法のゼミで学び、民間企業の内定をもらったが、「何となく就職する気がしなくなって、断りを入れた。義理の兄の酒屋をぶらぶらと手伝っていた時に、外務省の語学研修試験を受けた」のが、インドネシアと付き合い始めたきっかけ。「日本とどこかの国の間に立つような仕事にちょっと興味があった程度」という。当時は「アジアの時代」と言われていた。海洋法に興味があり、「インドでも良かったが、どうせならインドネシア語を第一志望に」と選んだ。
■思い入れできるまで
今でも、インドネシアへの特別な思い入れはないかもしれないと言う。それも、「自分の世界に『インドネシア』というものをきちんと持っておられた」先人たちと付き合い、深みを感じてきたからこそ。
「今でも食べ物は日本の方がおいしいと思う。だけど、何となく落ち着くところがある。『うちに入っていけ』とか、どこでもみんなやさしくしてくれる」「思い入れができ始めたのは仕事をして数年経ってから。(研修先の)ジョクジャや(その後、そのまま勤務した)ジャカルタでの見聞に対し、別の角度からの視点を持つことを先輩たちに教えてもらい、インドネシアは奥行きがあって、生活が豊かなんだなと思うようになった」
■相手を思う気持ち
思い出の一つとして、語学研修の初めの年に厚生省(現在の厚生労働省)の遺骨収集団の随行でイリアンジャヤ(現在のパプア)に行った話を挙げる。道中、竹下さんという団長がイヤホンをしているのに気付いた。慰霊祭の前夜に「明日はインドネシア語であいさつをしたいから、内容を訳してほしい」と頼まれ、今後ずっとインドネシアと関係を持つわけではないのに、インドネシア語を勉強していたことが分かった。
同行していたインドネシアの軍人も「竹下さんという人がインドネシア語であいさつするらしいけど、俺は日本語でやる」と言って、城田さんにインドネシア語の文章を日本語に訳すよう求めたという。
「これには感動した。研修開始直後にあのような人たちと出会えて良かった」と城田さんは、相手を思う気持ちの大切さを噛みしめたエピソードを振り返る。
■スハルト秘話語る
86年から93年までの2度目のジャカルタ勤務では、当時のスハルト大統領の正通訳を務めた。日本からの来客とともに、週に2回、顔を合わせたことも。「会っている時は本当に好々爺。だけど、9.30事件を契機に政権を取っているわけだから、それだけのはずがない。会談を待っている時に、スハルトさんが遠くを通り過ぎることがあった。本当に厳しい顔つきで、周りの人は近づけないような雰囲気だった。普段はそれが一切表に出ず、同一人物の中にああいう異なる表情が普通に出てくる人だった」と評する。
■日イが同じ立場で
時は経ち、インドネシアは民主化の時代となった。「生活感覚で世界を感じる層が増え、視野がものすごく広がっている。シャンプー一つとっても、アメリカ、フランス、日本のブランドをきちんと認識しながら使用している」と話す。
「下手すると今は日本の方がローカルな知性しか持っていない人が増えている。インドネシアの人たちは外国とビジネスする時も積極的。フラットな立場で一緒に知恵を出し合い、能力も人脈も広がっていく。元々、大きく伸びる要素をたくさん持っている人がいるから、今までよりすごい人たちが現れるだろう」
そのような認識を踏まえ、「援助とかではなく、同じ立場で協働できる時代。ようやく、日イがそれぞれの強みを相乗効果で高めていけるような関係になった」と城田さん。
その状況を有効活用するためにも、大局観を持った上で細かい問題に過敏に反応するのではなく、その問題の本質を理解するような「奥行きを持った付き合い方」をすることが肝要と説いた。(バリ島デンパサールで、上野太郎、ノファ記者、写真も)