日本兵遺骨70年ぶり帰国へ パプアで戦没の134柱 大使館で拝礼式 厚労省事業
太平洋戦争中にパプア州で死亡した日本兵の遺骨を収集する厚生労働省の遺骨帰還応急派遣でインドネシアを訪問していた戦没者遺族らは21日、中央ジャカルタの在インドネシア日本大使館で、パプア州サルミ県とジャヤプラ近郊のプアイ村で収集した遺骨計134柱を拝礼し、東京に向けて出発した。戦没者はおよそ70年ぶりに日本に帰還する。
派遣団は戦没者遺族6人と厚労省の担当者で構成し、12日に同州に入った。これまで遺族ら民間による調査で所在が分かっていた遺骨を収集するとともに、発見場所に残っている遺骨や遺留品を探し、プアイで110柱、サルミで24柱を収集した。インドネシアの法医学専門家の鑑定を受け、骨の特徴や所持品から日本兵のものと確認した。
21日の拝礼式には派遣団のほか、鹿取克章大使や大使館職員が参列し、日本兵の冥福を祈った。
厚労省によると、所持品や印鑑などで氏名が分かる場合は遺族の同意を得てDNA鑑定し、身元を確認するが、今回は氏名判別につながる遺留品は見つからなかった。遺骨は5月に千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都)である厚労省主催の拝礼式で納骨される。
インドネシアでの遺骨帰還事業は1956年度に開始。継続的に行っていたが、昨年度事業では、同州ビアク島に遺骨があることが分かったものの、地元の反対で日本に持ち帰ることはできなかった。厚労省は反省を踏まえ、インドネシア政府が遺骨帰還に協力してくれるよう、政府間の取り決めをまとめる方向で調整している。
同省によるとインドネシアでは日本兵約8万4千人が死亡したが、帰還を果たしたのは半数にとどまる。パプアと西パプア両州には死者約5万3千人のうち約2万人分の遺骨が眠っているとされる。当時の状況を知っている元日本兵の高齢化や、現地の地形の変化などで、遺骨発見は難しくなりつつあるという。
派遣団に加わった厚労省援護企画課外事室の土元敏信室長補佐は「日本のために戦地に行き、自分の意思に反して日本に帰れなかった人がいたということを記憶にとどめたい」と話した。(道下健弘、写真も)
■「父もこの景色見た」 派遣遺族が活動振り返る
今なお多くの日本兵が眠るパプア州で遺骨収集に参加した遺族6人は、いずれも同州で父親や祖父を亡くした。戦後68年近く経過し、遺骨の身元確認は困難になっている。再会はかなわなくても、親族が眠る地での収集を終えた派遣遺族は「父もこの景色を見たのだろうか」と、感慨深げに活動を振り返った。
身元確認の決め手としてDNA鑑定があるが、氏名などが分からなければ照合先の遺族を絞りきれず、ほとんど実施されていないのが現状だ。21日間の活動で134柱を収集する成果を得たものの、身元が判明した遺骨はなかった。
遺族の1人で、遺骨収集を進めるNPO法人「太平洋戦史館」(岩手県)理事の田中幸雄さん(80)らが「父親を探すという気は毛頭ない」と言うように、自分の肉親と同じ戦死者や、帰ってこなかった父親を持つ遺族を思い、「1人でも多くの遺体を帰国させたい」という願いが派遣遺族の原動力になった。
それでも、肉親の最期の地に足を踏み入れれば「収集した遺骨のなかに、自分の父親がいるかもしれない」という思いが頭をよぎる。今回初めて参加した曽屋眞紀子さん(69)は現地で触れた、住民ののどかな生活を当時父が見た景色と重ね「父に会えたような気がした」と満足げだ。
4歳の時に父親が出征した瀬野尾一江(74)さんは、19日の現地追悼式で、かすかに残る父の記憶をたどりながらメッセージを朗読。参列した地元住民約20人からもすすり泣きの声が聞こえた。
「当時、日本兵の間で『死んでも帰れぬニューギニア』と話されていた場所に眠る遺体を連れて帰れるのはうれしい」と話す遺族もいた。