【おじさんの留学奮闘記】(1) 平和通り
1998年5月のスハルト政権崩壊直後からフジテレビ系列のジャカルタ支局長として3年にわたり、民主化時代の幕開けを迎えたインドネシアの状況を日本に伝えた横山裕一さん(48)が、西ジャワ州デポックの国立インドネシア大学(UI)のインドネシア語コース(BIPA)に通い始めた。「3人の大統領の変遷など激動の時代を見ることができた」と特派員時代を振り返る横山さんは、帰国後もインドネシアへの思いを持ち続け、昨年、所属先の東海テレビを早期退職。インドネシアへ念願の「帰還」を果たした。「まだ見足りない、聞き足りない、インドネシア人の心を知りたい。そのためにはもっとインドネシア語を学ばないと」と、韓国人学生や邦人主婦らとともに机を並べ、25年ぶりの学生生活を楽しんでいる横山さんのインドネシアでの留学奮闘記を定期連載する。
これから学び舎となるBIPAのあるインドネシア大学までは、デポックの目抜き通り、マルゴンダ・ラヤ通り沿いにあるアパートから徒歩で約5分。
大量の車とバイクをすり抜けてマルゴンダ通りを横切り、幅1メートルほどしかない家と家の隙間のような道へ。とはいえ何と立派に「JL.DAMAI(平和通り)」と行政が作ったであろう看板まである、れっきとした道のようだ。
約50メートルで住宅街へ。学生たちが立ち寄りそうな飲食店やコピー屋などが数軒。やがて線路に出くわす。踏切は人が通るだけの小さなもの。そんな「踏切」に鉄道会社に雇われたわけでもなさそうな、Tシャツ姿の兄ちゃんが、ヒモで釣った竹筒の遮断機で通行人を見守っている。学生が通ると遮断機を上げ下げ。箱がおかれただけで特に通行料を求めるわけでもない、若い踏切士。
線路をわたるとそこはインドネシア大学。広大な緑多いキャンパスの中心に、芝生で覆われたピラミッド型の大きな図書館が風景にとけ込んでいる。「さあ目的地は」と思ったら案の定迷った。道行く学生や警備員に聞くと、覚悟していたが皆がてんでバラバラの方向を指す。今回のインドネシア来訪で初めて暑さを感じた。
30分放浪の末ようやくBIPA事務所へたどり着く。後で見ると、何のことはない、敷地に入ってからまっすぐ来て右へ入るだけじゃないか。
帰り道、ガンビル行きの電車が通過するとその奥には、あの踏切士がまじめに踏切を見守っている。行きは静かだったが、今や学生たちでにぎやかな「街」になっていた。近所のおじさんと世間話をする店のおばちゃん、ジュースを作っている笑顔の可愛いお姉さん。学生時代の雰囲気をちょっと思い出す。
そしてまたあの「平和通り」。今回は狭い中3人とすれ違った。人以外通るべからず、それ以前に自転車だってすれ違いようがない。ここなら交通事故もないからまさに「平和」だろう。こじんまりとした商店街とその人々、学生たちに愛すべき踏切士。そこはまさに「DAMAI」といった雰囲気に溢れていた。
◇横山裕一さん
1964年7月名古屋生まれ。88年、早稲田大学第一文学部卒業後、東海テレビ放送入社。報道畑を歩み、98年7月〜2001年8月まで、フジテレビ系列のジャカルタ支局長としてインドネシア駐在。西はアチェのサバンから、東はパプアのワメナまで20州(当時)に足を運び、マルク州アンボンや西カリマンタン州サンバスの宗教・住民紛争、東ティモールの住民投票とその後の騒乱も取材した。帰国後は本社スポーツ部の部長などを務め、プロ野球や名古屋国際女子マラソンの中継やゴルフトーナメントの運営等を担当。今年1月からインドネシア在住。