親族の捺印、出稼ぎへ壁 2度諦めた日本行き 【甦る縁 沖縄と北スラウェシ】(第3回)
現在、北スラウェシで生きている沖縄2世は10人に満たない。ガキヤ(我喜屋)・コウトク(69)はその一人だ。
太平洋戦争開戦前、カツオ漁師として北スラウェシに来ていた父・武秀が、コウトクとインドネシア人の母を残して帰国したことで沖縄との縁は消え、それから半世紀以上、地元の人々とともに生きてきた。
しかし2002年ごろ、コウトクと血のつながっている沖縄の親族が見つかる。突き止めたのは、茨城県大洗の水産加工業者だった。
■親族見つかる
業者は1990年代後半から、不足気味だった労働者を雇い入れるため、北スラウェシに住む日系人の日系ビザ取得を仲介していた。出稼ぎを望んでいたコウトクの息子も、その日系人のリストに含まれていた。
ビザを取得するためには、沖縄の親族に身元保証人を引き受けてもらい、関係書類に捺印してもらう必要がある。業者側は独自の調査で親族を見つけ、コウトクの名が父の実家の戸籍謄本に載っていることを発見したのだった。
戸籍には「孝徳 蘭領東印度セレベス島(注・現在のスラウェシ島)メナードビートン村番地不詳で出生」とあった。コウトクの父は沖縄へ帰郷後、コウトクを息子とする戸籍手続きを日本で行っていた。
北スラウェシのガキヤ一家は、沖縄の親族が突き止められたことで、ビザの取得手続きが進むものと期待した。しかしその後、業者側からの連絡は一方的に途絶え、出稼ぎの話はうやむやになった。
■手紙を託すも
そこでコウトクは、北スラウェシに住む日系人の親族探しを手伝っていた沖縄県出身の長崎節夫(69)と金城力人(68)に、親族に直接会って協力をお願いしてほしいと頼んだ。
2人は2005年、戸籍の情報をもとに沖縄の親族と連絡を取り、那覇市内のホテルで親族の男性と会い、コウトクが「息子が祖国へ働きに行く。協力してほしい」と書いた手紙を手渡した。
親族は積極的には見えなかったが、ビザ手続きに向けての協力を約束してくれた。しかしその後、2人が連絡をしても、その男性が電話に出ることはなかった。
血のつながっている親族は当然助けてくれるだろうと思っていたコウトク。結局、親族からの捺印は得られなかった。
北スラウェシから帰国したコウトクの父は、沖縄で再婚して子を設けていた。親族から見ればコウトクは腹違いの子。「身元保証人になることによって、面倒に巻き込まれるのを恐れたのかもしれない」とコウトクは話す。
■関与を恐れる
現在も続けている長崎と金城の橋渡し活動は、成功例が少ない。
北スラウェシで家族を設けた沖縄漁民の中には、戦争によって帰国した後、沖縄で再婚した者も多くいた。腹違いの息子が北スラウェシにいる事実を嫌ったり、2世や3世に関与することを恐れたりする親族も多いのが現状だ。(敬称略 岡坂泰寛、写真も つづく)