4世「私は島んちゅ」 忘れられた子孫、祖先の地へ 戦争で消えた沖縄漁民 【甦る縁 沖縄と北スラウェシ】(第1回)
窓の向こうにうっそうとした椰子林が広がる。程なくして飛行機は北スラウェシ州マナドに到着した。ここから東に約50キロ。ミナハサ半島東端の港町ビトゥンへ向かった。
ビトゥンの人口は約17万人。東部インドネシア地域の漁業基地となっており、カツオ節産業が盛んだ。削る前の生節(なまぶし)はほとんどが日本へ輸出されている。
日の出前の漁港を訪れると、漁師たちが小型の漁船からせっせと魚の水揚げをしていた。港を一回りするうち、ほかとは一風違う見掛けの船を見つけた。へさきは尖り、船体のへりには人が座れるほどの幅の足場と撒水器が取り付けられていた。
「日本と同じ形だろ」。日焼けした船員が話し掛けてきた。船に乗ってみると、中央に配置された餌を入れる生け簀とその左右に魚槽があった。
戦前、ビトゥンでは100人以上の沖縄漁民がカツオ漁業に従事していた。漁船の形はそのころから受け継がれてきたものだった。
■新天地求めた漁民
1920年代、日本政府は第1次世界大戦後に委任統治領になったミクロネシアなど南洋諸島でカツオ節産業を奨励し、沖縄県出身者がその担い手の中心をなしていた。
昭和不況が起こっていた当時、沖縄のカツオ産業は過当競争により落ち込みが激しかった。そのため県は南洋への漁業進出を支援するようになり、多くの沖縄漁民が新天地へ渡った。
気候や漁業条件が沖縄と類似していたことや、餌料採捕からカツオ節製造までの一貫方式が未開発地域でいき、沖縄の漁民はカツオ産業の従事者の大部分を占めるようになった。
そして、沖縄漁民は委任統治領だけではなく、オランダ領だったセレベス島(現・スラウェシ島)でもカツオ産業に従事。地元の女性と結婚して家族を持つ人も増えていった。
しかし太平洋戦争の勃発で、沖縄漁民は強制退去や日本軍の軍属となることを強いられ、北スラウェシから姿を消した。そして、彼らの現地の家族が残され、時が経つにつれてその存在は忘れられていった。
■慰霊団との出会い
現在、北スラウェシに生存している沖縄2世は10人に満たないが、4世や5世までを含めると、子孫は千人近くに上る。
そんな中、終戦から半世紀以上経って、再び沖縄とつながった北スラウェシ在住の2世がいる。今年で76歳になるタマシロ(玉城)・タマエコだ。
2004年。この年、沖縄県民の一行が、北スラウェシに整備された日本人墓地を慰霊するため、日本からやってきた。タマエコはその慰霊団と会い、自分が沖縄の2世だと名乗った。
その時に出会った沖縄県人の支援で、タマエコと血がつながっている沖縄の親族が見つかり、北スラウェシのタマシロ一族は翌年、那覇を訪れて、沖縄の一族と対面を果たした。
それに同行したタマエコの孫・インドラの人生は、この沖縄訪問を境に大きく変わっていった。
インドラは、沖縄で見た澄んだ海、穏やかな県民性に惹かれ、自分に流れるウチナーの血を意識するようになった。祖先の地へ留学する夢を抱き、知り合った沖縄県民の後押しで、2008年、沖縄大学への留学を果たした。
沖縄を目指した理由を聞くと、「私は島んちゅですから」と笑った。インドネシアで生まれ育った4世の心には、沖縄の魂が宿っていた。(敬称略)
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北スラウェシで取材を重ねるうち、日系人ビザを取得して日本への出稼ぎを目指す沖縄の子孫たちがいることも分かってきた。北スラウェシと沖縄のよみがえる縁を、5回連載で紹介する。(岡坂泰寛、写真も、つづく)