【育まれた交流 次世代へ 気仙沼とインドネシア】(下) 水産に限らない関係へ 友人から兄弟の関係に

 「気仙沼とインドネシアとの間には何か通じるものがあるのではないかと考えている」と強調する宮城県気仙沼市市長の菅原茂氏。トーメン(現豊田通商)に入社後、インドネシアからエビとクラゲ、トビウオの卵を輸入する水産部で勤務。退社して気仙沼に戻ってからはインドネシア人乗組員が大半を占めるマグロ漁船の船主を務め、バリに入港したり、ジャカルタで面接をしたりと、常にインドネシアとかかわってきた。
 「遠洋マグロ漁船は一年にわたって洋上でマグロを追う。男ばかりの洋上生活で、インドネシア人乗組員とは仲良く過ごすことができる」と菅原氏。「私たちはインドネシア人の皆さんがいなければ漁業をやっていくことができなくなる。これからも感謝と尊敬の念を持って漁業を続けていきたい」

■「非常にイスラム的」
 「気仙沼は、京都や北海道よりもずっと印象深く、私にとって非常に特別な町。なぜなら私はここで、日本人について勉強したから」と語るのは、2010年8月から駐日インドネシア大使を務めるムハンマド・ルトゥフィ氏。震災後に大統領の訪日を検討している際、真っ先に気仙沼への訪問を薦めたのはルトゥフィ氏だ。
 前任のユスフ・アンワル氏が毎年、「バリ・パレード」を訪れていたこともあり、震災前から気仙沼に強い思い入れがあった。震災後は被災現場を視察。二つのおにぎりと250グラムのミネラルウォーターで1日を過ごしたり、トイレが常に清潔な状態に保たれているのを見て、「震災という大変な出来事が起きたのに、決然としており辛抱強く、寛容で規律が保たれていて、ムスリムの人間にとって非常にイスラム的であると感じた」という。

■「大統領訪問 励みに」
 国家元首として震災後初めて気仙沼を訪れたユドヨノ大統領。菅原氏は「非常にハートフルで、まさに壊滅的な被害を受け、折れそうだったときに心の支援をもらった。インドネシア人の皆さん、またインドネシアにいる日本人の皆さんがお見舞いをくれたことで、遠くインドネシアの国からも多くの応援団がいるということが分かり、『自分たちが孤立無援で復興するのでない』と思えたことで心強く、励みになった」と振り返る。
 菅原氏は「インドネシア・パレードの再開は、震災を経て気仙沼とインドネシアの友好関係がさらに深まったことの象徴」と強調。ルトゥフィ氏は震災を経て、「インドネシアと日本はより心を通じ合う関係に変わった。以前からわれわれは友人だったが、今は兄弟のように感じている」と語る。
 これからの日イ関係について、菅原氏は「経済的にも今後ますます深い関係になる。気仙沼においてもこれまでマグロ漁業という観点だったが、相互補完的な関係が水産に限らず築かれてくるはずだ」と説明。
 「今後も成長を続けていけるかの岐路に立っているインドネシアは日本の技術を必要としており、ゼロ%成長が続く日本も、新興市場を必要としている」との認識を示すルトゥフィ氏は「経済、文化、社会、あらゆる面で必ず、関係が強化され、好む好まざるにかかわらず、今後お互いがより戦略的に重要になるのは間違いない」と力を込めた。(関口潤、写真も、おわり)

◇菅原茂(すがわら・しげる)
 1958年生まれ、54歳。東京水産大学(現東京海洋大学)水産学部卒業後、91年までトーメン(現豊田通商)、同年から気仙沼市の水産会社・菅長水産で勤務。小野寺五典・衆議院議員の公設第1秘書を経て、2010年に気仙沼市長に就任。

◇ムハンマド・ルトゥフィ
 1969年生まれ、43歳。米パデュー大卒。貿易やエネルギー開発などのマハカ・グループ会長を務め、2001―04年まで若手経営者協会(HIPMI)会長。05年5月に投資調整庁(BKPM)長官に就任。10年8月に駐日大使に就任。

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