慰霊碑を「平和の象徴に」 地元が大使館に嘆願書 ボゴール県
開戦翌年の1942年3月、当時の日本軍はジャワ島上陸作戦を展開。西ジャワ州ボゴール近郊のリュリアンでは連合軍の砲火の前に多くの将兵が散華した。その慰霊碑を平和の象徴として保存したいと立ち上がった地元政府。損壊の危機に瀕していた碑は移設され、26日に在インドネシア日本大使館が現地を視察するなど、21世紀に結ぶ友情の碑として新たな一歩を踏み出した。
リュリアンの戦闘で戦死したのは、第2師団16連隊に所属する新潟県新発田出身の部隊。雨期で氾濫するチェプラン川を渡れず、対岸で迎え撃つオランダ・オーストラリア連合軍から銃撃を受けたとされる。
この交戦現場に戦後、戦友会が1999年に建立したとされる現地の碑には「廣安梯隊 戦没者慰霊碑」と刻まれていた。しかし、中央ジャカルタ・タナアバンのタマン・プラサスティ博物館にも同じリュリアンで戦死した兵士30人の墓碑があり、建立の経緯を知るには関係者への聞き取りが必要になりそうだ。
一方、地元となるチブンブラン村のオダ村長は「土地は日本大使館が購入した経緯があり、協力して慰霊碑は平和の象徴として残したい。一帯を観光スポットに作り変え、後世に引き継ぎたい」と提案。ただ、川の浸食で碑は倒壊寸前の状態にあり、今年4月、金杉憲治・在インドネシア日本大使に窮状を訴える嘆願書を出した。
これを受けて日本大使館は、独立戦争を戦った元残留日本兵の子孫による組織、「福祉友の会」のヘル・サントソ衛藤会長に協力を要請。まずヘル会長が提供した寄付金で慰霊碑を約2メートル移す工事が始まり、これが完了した26日、大使館は今井洋之領事部長と水野秀紀防衛駐在官を現状把握のため、現地に派遣した。
当日は日系企業関係者とともに慰霊祭が行われ、オダ村長の案内で近くの歴史博物館を見学するなどメモリアルパークとして再出発を求める地元の要望を聞き取った。
ただ、今井領事部長によれば、大使館が土地を購入したという資料はまだ確認されていないという。所有者の特定もこれからとなるが、戦死者の霊を祀る慰霊碑を放置すべきではない。福祉友の会のヘル会長は、「この国に生きる戦死者の三世たちのためにも、各地で眠る一世の思いを知る場所としてなんとか次世代につなぎたい」と話している。(長谷川周人、写真も)