【続・香料諸島の旅(歴史編)】㉔ マンハッタンと交換 英蘭がバンダ・ルン島と

 バンダ諸島の歴史の中で、大変興味深い逸話の一つが、ルン島とアメリカのマンハッタン島の交換である。オランダがそれまで支配していたアメリカのマンハッタン島をイギリスに譲り、その代わりにナツメグの木の生い茂る島であったルン島をイギリスから正式に譲り受けた。今のマンハッタン島(ニューヨーク)とルン島の状況からだけで判断するととても想像がつかない交換だ。当時はナツメグがそれだけ貴重な産品であり、その独占のためにオランダはどうしてもルン島を手に入れたかったのだ。
 イギリスはルン島だけはいつの日か戻ってくるという希望を持っていた。実際、1632年と33年、イギリス東インド会社は、ジャワ島のバンテンのイギリス商人に手紙を送って、ルン島をもう一度占領しろと命令している。イギリスにはオランダによって伐採されたナツメグの木を復元し、イギリスに返すべしとのイギリス代表団の交渉の記録が残っている。1636年にはイギリス人が、まだ緩やかに機能していたバタビアのオランダ・イギリス共同協議会の書類を携えネイラ島に現れた。ナツメグ栽培を再開したいとの意欲を示す行動に出たりした。1638年、1648年にもイギリス代表団の訪問があったが、本当の論争はヨーロッパに移されることになった。世界貿易の優先権と漁業問題をめぐって、イギリスとオランダの間で1652年に始まった第1次英蘭戦争は、1654年のウェストミンスター条約によって講和が成立した。イギリスの有利な結果になり、ルン島を即刻復旧し、オランダはイギリスの損害に対し8万5千ポンドを、アンボン虐殺事件の遺族に4千ポンドを支払うものとした。島のナツメグ林は再び花をつけていた。
 イギリス東インド会社は1657年に近代的な共同出資会社の組織として生まれ変わった。東洋貿易を再開したが、主力の船団が派遣されたのは香料諸島ではなく、インド亜大陸であった。西ジャワのバンテンに代わって、インド西部グジャラート州のスラトに会社の本部を移転した。イギリスが輸入するのは、こしょう、保存ナツメグ、ジンジャーもあったが、スパイス類は主力製品ではなくなり、キャラコ(インド木綿)、絹織物、コーヒー、茶や火薬の製造に欠かせない硝石などに転換していった。ただイギリスはルン島には未練があった。
 1665年3月、イギリス船がルン島に入港し、数人のオランダ貿易商にルン島の開け渡しを迫った。6月には覚書が作られ、当座の合意としてルン島はイギリスに返された。そしてオランダ人はネイラ島に移った。しかしながらイギリスに解放されたルン島は短命であった。オランダが再び占領し、イギリスが再上陸を試みたりしないように、島を再び破壊した。ナツメグ林は切り倒され、ルン島は不毛で荒涼たる岩山と化した。イギリスのチャールズ2世の弟であるヨーク公ジェームスは激怒し、マンハッタンにあったオランダのフォート・ニュー・アムステルダムを攻撃した。老朽化していたこの要塞(ようさい)はすぐに墜ち、その後この地はニューヨークと名を変えた。何も解決しないままに両国は再び戦争状態に入っていった。
 1667年3月、双方の苦情についてブレダ(オランダ南部のブラバンド州の都市、イギリスと大陸を結ぶ交通の要衝)で協議した。イギリスの要求はオランダの非道の補償、そしてルン島の即時返還であった。オランダはイギリスの海賊行為の補償とニュー・アムステルダの返還を要求した。
 交渉は暗礁に乗り上げ、講和監視団が介入して一つの解決策を提案した。それは、オランダがルン島を取る代わりに、イギリスはマンハッタン島の権利を保留するというものである。イギリス側は躊躇していたが、1667年4月にロンドン本部から承諾するという手紙が届いた。1665年から始まった第2次英蘭戦争は、1667年にブレダ協定が結ばれて終結した。この協定によりオランダはルン島を取り、それと引き換えにアメリカのマンハッタン島をイギリスに譲渡することが正式に決まった。
 ルン島は4キロx2キロの小さな島で、ここと交換したマンハッタン島に、世界で最も繁栄する大都市ニューヨークが誕生するとは、当時の誰が予測できたであろうか。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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