ナツメグの次は丁子 VOC、全盛期迎える
バンダの人々は、オランダ東インド会社(VOC)の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンによって完全にその勢力を削がれた。生き残ったオラン・カヤ(有力者)たちは、捕獲されて鎖につながれ、クーンの旗艦内に監禁された。そこで共謀罪で不当な裁きを受け、船から飛び込み逃げ去った者、苦痛でもだえ死んだ者がいた。それ以外の44人の捕虜(うち8人はオラン・カヤ)は、ナッサウ要塞(ようさい)の外に竹で作った囲いの中に入れられた。クーン総督暗殺の陰謀、講和条約の違反という判決が読まれた。オランダ語の分かるオラン・カヤの一人が死刑を仕切っていた中尉に向かって、「あなた方は憐みを持たないのですか」と問うたが、答えはなかったとの話が残っている。6人の日本人傭兵(関ケ原の戦いの敗軍の残兵という説あり)が鋭利な刀で44人の首をはねた。
この処刑の話は、この惨事を目撃したオランダ海軍副官のレポートによるものであり、オランダ国内で匿名のレポートとして出回っていた。
その後、オランダは500人の兵士をルン島に送り、オランダは戦うことなくルン島を手に入れた。島民とイギリス人に砦(とりで)と倉庫を壊し、大砲を海に捨てることを要求した。イギリスはそれから数年の間取引はできなかったが、ルン島の所有権を依然として主張していたので、オランダはナツメグの木の「根絶」政策を実行し、かつては芳しく緑美しい島であったルン島を文字通り裸の島にしてしまった。
バンダでのナツメグの独占を確立した後、VOCは次に丁子に狙いをつけた。1623年、オランダ人への謀略容疑でアンボンのイギリス商館の社員全員が捕えられ、そのうち21人が死刑になった「アンボン事件」を経て、イギリス人を追い出した。アンボンでの丁子栽培を徹底的に管理していくため、オランダの目の届かない島の丁子の木を切り倒し、オランダの独占を確立していくのである。なお、アンボン事件でも日本人の傭兵が登場するが、この時はイギリス側の傭兵で、イギリス人と共に処刑されている。
かくてクーンはイギリス人を退却させ、バンダ人に情け容赦ない犠牲を負わせ、所期の目的を達した。偽善的であくどい手段に対し、彼は本国の「17人会」から譲歩付きであった称賛を受け報奨金まで得ている。彼の行為は、当時のオランダ人をはじめ、順次世界の人々に大きな嫌悪感を植え付けた。近年の歴史家は、彼の名声は血の匂いがすると批判している。偉大な帝国の建設者クーンは、今日では、「野蛮、非人間的、血に飢えている、怪物のようだ」と言われることもある。1629年のクーンの死後、彼の徹底的な戦略が実り、その後を継いだ総督ファン・ディーメンの時代からVOCは全盛期に入っていった。
1641年に、東西貿易の物資の集積地であったマラッカがオランダに降伏。1661年にはオランダはこしょうの港であったインドのマラバルを攻略し、1795年まで植民地としている。17世紀半ばには、東部インドネシアの統制を完了した。こうしてオランダは香辛料取引で確固たる地位を築き、丁子、ナツメグを独占状態とし、こしょうとシナモンでも優位を占めた。
ここでオランダの総輸入額の中のこしょう、香料の比率について触れておきたい。1602年にVOCが設立されてから50年ほどの間は、70%程度を占めるほど大きかったが、1670年に41%、1700年には23%に落ちている。この数字から香辛料の重要性が17世紀後半からかなり低下していったことが分かる。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)