オランダの包囲網に抵抗 イギリス人船長の戦い

 ただ不幸なことに、イギリス人の船長コートホープが死守しようとしたルン島とナイラカ島には、モンスーンの雨水から取る以外の淡水がなく、魚以外には食料もなかったので、長期の封鎖には弱かった。果物や野菜すら充分ではない。他にはサゴヤシがあるだけだ。これまで近隣の島に食料を依存してきたが、今はオランダに厳しく統制されている。イギリス人は飢えと喉の渇きと退屈さに悩まされていたが、コートホープは不屈の姿勢を保っていた。
 恒常的な食料不足から、彼も部下も病気にかかっていたが、時折りオランダの海上封鎖をかいくぐって、ジャンク船が米やアラック酒を届けてくれた。水を求めてセラム島に行ったスワン号がルン島に帰る途中、オランダの攻撃に敗れネイラ島までえい航され、ルン島に唯一残るディフェンス号も何者かの仕業で鎖が切られ外洋に流されてしまったという不運なことが重なり、コートホープは窮地に立たされていた。
 バンダ諸島の外でも、英蘭間は激しく争っていた。マカッサルではイギリス取引員の策謀がもとになって、15人のオランダ人が殺されるという残虐行為があった。また西ジャワのバンテン港停泊中のオランダ船から多数のスペイン人、ポルトガル人の囚人が脱走し、イギリスがその隠れ場所を提供したことをきっかけに、かろうじて均衡が保たれていた英・蘭間の敵意が形になって現れ、バンテンの路上では毎日のように小競り合いが起こり、刃物や短剣を持った水兵同士がたがいを追い回すようになった。バンテンの周辺の海域でもイギリスのピンネース船がオランダに捕獲されたりする危険が増していた。
 1618年4月には、インドから3隻のイギリス船がバンダ海に入ってきた。コートホープを救出し、交易を盛んにするよう命じられていたが、オランダにより1隻は拿捕(だほ)され、もう1隻はジャワまで追い返された。それでもコートホープは屈することはなかった。その後もイギリスの仲間たちはコートホープを支援しようと艦隊の派遣を試みるが、いずれもバタビアに駐在するオランダ総督クーンに阻まれて、バンダまで到着することはできなかった。
 コートホープがルン島に来て2年以上たった1619年1月、良い報せがようやく聞こえてきた。監視の目をくぐって原住民のジャンク船がバンテンからの1通の手紙を届けてきた。イギリスの大艦隊を率いてきたトマス・デール卿(アメリカ植民地の総督を経験している人物)の手紙である。彼の使命は、ジャワ島からオランダ人を駆逐することだったが、その後に東へ向かいコートホープの勇敢な一団を救援するつもりだった。トマス・デール卿はバンテンでオランダのクーンとの戦いを優位に進めるが、クーンの船隊はバンダ方面に逃走してしまった。
 その後デール卿の艦隊の主力はインドに向かったこと、彼を救出しようとしていた仲間の死を知り、コートホープは部下もろとも見捨てられたと思った。しかし、この3年以上の苦難の日々の後、ここでオランダに降伏するわけにはいかない。彼は、自分の島の砦(とりで)を守って戦うことを誓うという道を選んだ。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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