招かれざるよそ者 オランダへの抵抗

 オランダ人がやってきたとき、バンダ諸島の人々は約50万本の木を家単位や村単位で管理していた。下生えや枯れ枝の除去、南洋アーモンドと呼ばれるカナリを植えて強い太陽光線からナツメグの木を守ることが必要であった。なお、カナリはアーモンドに似た食用ナッツが実る巨大な木で、まきになり丸木舟の船体にもなる。
 バンダには村の協議会はあるが、スルタンと称されるテルナテ王やティドレ王のような強力な権力を持つ支配者は居なかった。オランダとの契約はオラン・カヤ(有力者)により結ばれたことはすでに述べたが、オランダ側が一方的に事前に決めた価格を押しつけたり、バンダ側も重量をごまかしたりして、双方ともあくどいことをしていたことは否めない。
 バンダ人は取引相手として、ジャワ人、ブギス人、中国人、アラブの商人たちを好んだ。これらのアジアの商人は、ジャンク船で地元民の好む日用品を運んできた。また彼らは値段の交渉にも柔軟で、地元民との社会的な交わりもあり、オランダ人のように信用を損なうようなことはなかった。
 オランダ人は、たまの訪問、交渉の余地のない価格、地元の習慣の無視、持参する不適当な商品、他の誰とも、特にイギリスと取引しないというかたくなさにより、自らを大変不人気な立場に追い込んでいた。地元民はオランダが兵隊を上陸させ、村を焼き払い、商品在庫を没収し、さらに多くの譲歩を要求しても、オランダによるナツメグの独占は非現実的なものと思っていた。
 オランダ側は、バンダ人との約束は意味のないものと知るようになり、バンダ人が温厚なオランダ人にさえにも時折危害を加えることに耐え難い思いをした。一方、バンダ人は彼らの自由、商い、財産、家族、それに故郷の土地は守られるべきものであると信じていた。バンダ人がオランダ人を傷つけることがあっても、それは招かれざるよそ者への合法的な防衛であり、オランダ人が加える危害は、彼らが耐えてきたことと比べると取るに足らないものだと主張してきた。しかしながら、オランダ人は耳を貸さず、バンダ人は弱く危険に身をさらされ分裂状態にあった。

ネイラ島を領土化
 バンダの人たちには、「いつか後の日に、白い肌で赤毛の体を全部覆う服を着た者どもがやって来て、この島を奪うだろう」という昔からの祖先の予言があったことが伝わっている。これが現実のものになり、オランダの攻勢はますますすさまじくなり、1609年にはネイラ島を領土化した。
 1608年4月、オランダの提督ピーテルスゾーン・フェルハーフェンが、14隻の武装船と共に東インド海域にやって来た。彼はオランダ東インド会社(VOC)の重役会である「17人会」から「丁子とナツメグの島に特段の注意を払え。VOCのために力ずくでも条約を締結せよ」との指令を受けていた。彼の部下は大半がオランダ人の少なくとも千人の兵士と、幾人かの日本人傭兵であった。
 スペイン人攻撃のためにマニラに向かった1隻が途中の海上で行方不明になっていたので、バンダネイラに到着した時には13隻の船団であった。ネイラ島にはウイリアム・キーリング船長の率いるイギリス人が居てバンダ人と取り引きしていたが、彼らはその後オランダとの争いの恐れの少ないルン島とアイ島に移って行った。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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