オランダの圧力 バンダ諸島で独占契約

 オランダの提督ヘルマンゾーンはイギリス人を脅かしたり、時には無視しながらナツメグ・メースの独占購入権を得るべくバンダ人に圧力をかけていた。オランダによる独占契約を結ぼうとロンタールとネイラ島だけでなく、バンダ諸島全島に及ぶようしつこく交渉を重ねた。そして1602年5月に、オランダの独占を認める契約にオラン・カヤ(有力者)数人がサインしてしまった。
 オラン・カヤたちはポルトガルとイギリスという敵から守ってもらうのと引き換えに、オランダに絶対的な独占権を与えてしまった。バンダ側がサインしたのは、もし拒否すれば報復が怖かったからであり、彼らにとってはイギリスとの競争も必要だし、地域の商人との取引も必要であった。
 アジアの商人の船は、バンダ人にとって不可欠な米とサゴを運んでくれるし、バンダの気候風土に合うジャワのバティックやインドのキャラコ(綿)、それに中国の磁器、金属製品、薬、雑貨も提供してくれる。
 一方オランダは、必ずしもバンダ人にとって必需品とは言えないベルベット(ビロード)、ダマスク織の絹、羊毛を売りつける。バンダが提供できるのは香料だけであるから、オランダとの独占契約は特に利点があったわけではい。安易に契約を結んでから、オランダがその履行を真剣に考えていることが初めてわかった。
 1605年の提督ファン・デル・ハーヘンの遠征隊は13隻の船と少なくとも1800人の陣容からなり、オランダ東インド会社(VOC)の重役会「17人会」からマルク諸島からポルトガルとイギリスを追放し、貿易と軍事拠点を確立せよとの明確な指令を受けていた。
 ハーヘンは最初にアンボンに注目し、そこでポルトガルの要塞を襲った。要塞は決して渡さないと言っていたポルトガルはあっさり降伏した。オランダはこの砦(とりで)をビクトリア要塞と命名して、マルク諸島での基地とし、ポルトガルから覇権を奪うことに成功した。イギリスからの第2次遠征隊を指揮していたヘンリー・ミドルトンがこの時アンボン島に来ており、スルタンに交易を願い出ていたが、アンボンがオランダの手に落ちると、ただの一個の丁子も積まずに出航した。
 オランダはアンボンを奪取した後テルナテでも勝利し、次にバンダに船隊を送った。ポルトガルの教会から剥がしとった木材を積んでいたが、これはバンダに香料倉庫を造るためのものであった。イギリスがルン島の住民と取引しているのを知って、ハーヘンはショックを受けたようだ。オランダの独占の企みは夢と消えていた。
 オランダは1602年にオラン・カヤと契約を交わしていたが、双方の契約に対する理解に隔たりがあった。オランダがバンダ諸島に最初に到着した頃には、海岸沿いのいくつかの小さな共同体をそれぞれのオラン・カヤが統括していた。オラン・カヤのうち最も重要な人物はロンタール島に居た。
 オラン・カヤはモスクの管理、儀式、ナツメグの木の管理を主要な議題として、しばしば村の協議会を開いた。村人同士の作物に関する争いは、オラン・カヤによって仲裁された。一般の村人はほとんど海岸沿いの村に住んでおり、ナツメグ・メースを商品化し、島内や外からやってくる商人へ販売することで生計を立てていた。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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