アジア依存型からの脱却 英蘭の東インド会社
イギリス東インド会社(EIC)やオランダ東インド会社(VOC)にいう「東インド」とは、コロンブスが1492年に発見した西インドと区別した当時の地域名称で、現在の東南アジア全体と言って良い。ただ、そのカバーする領域はアジアに限定されたものではない。VOCの特許状は、「喜望峰の東、マゼラン海峡の西」と規定していた。また、EICを支えるものは、エリザベス女王の治世下に急速に力を蓄えつつある海軍力であったので、その目指す海域は広大であった。
スペイン、ポルトガルの海外貿易は王室の独占事業で、必ずしも利潤追求のみを目的としたものではなかった。このイベリア半島の2国のアジアへの航海者たちは、貿易以外にもカトリックの布教という任務を負っていた。
それに対し、プロテスタントの国である英・蘭の東インド会社は、国家とのつながりのある商人の共同出資で設立された株式会社で、商業活動自体が主な目的であった。特筆すべきは、VOCは単に貿易事業だけではなく、条約締結、戦争遂行、貨幣の鋳造などの権限が与えられており、国家の中の国家とも言って良い権力を持ち、後の植民地経営の母体となっていった。
振り返ると、バスコ・ダ・ガマによる喜望峰を回ってのインド航路発見は、ヨーロッパの経済史の点から見て一つの壮挙であった。それまで地域ごとに何度も積み換えをし、ヨーロッパまでもたらされていた香辛料などのアジア商品を、海路によって直接アジアから搬入できるようになった。
しかしながら、ポルトガルによるインド貿易は、それまでの伝統的なスパイス・ルート、すなわちインド洋から内陸キャラバンに乗って地中海に達する貿易路を打倒することはできなかった。ところが、オランダ、イギリスが喜望峰ルートの貿易に参画した17世紀初め、中東キャラバンのスパイス・ルートは崩れ、その後再び復活することはなかった。
西ヨーロッパの商人主導の東西貿易がいよいよ本格的に開始されたのである。英・蘭両東インド会社によるアジア貿易はその点で、アジア商人とアジア商業網依存型貿易からの完全な脱却であったわけであり、ヨーロッパ人を主体とするアジア進出であったと言える。17世紀の両国のアジア貿易は、それまでと同様に香料とこしょうの輸入を基軸とするものであった。
英・蘭東インド会社は、東インド海域に多額の資金を投資し、現地人による諸港間貿易を自らの手中に収め、大商業企業体としての威力を示した。元よりそれは、産業革命後のヨーロッパ人の進出とは比較にならない程のものであったけれども、西ヨーロッパ商業勢力のアジアへの本格的な進出は、大航海時代の流れの中で、両社によってようやく開始されたのだ。世界史的に見れば、人類の経済的・社会的「グローバリゼーション」は、大航海時代に起源を発すると言える。
■オランダの進撃
ナツメグ独占を狙う動きオランダは1601年にはテルナテに到来し、丁子取引のベースを確立していった。1602年に設立されたオランダ東インド会社は2年前に設立されたイギリス東インド会社の10倍の資本金を持つ株式会社で、香料貿易を大きく伸ばしていくことになる。オランダは、丁子の木をテルナテ、ティドレで伐採し、自ら管理できるアンボン周辺でのみ栽培を認めるという「根絶政策」を実施したが、ナツメグの場合も同様にカネになる木を、他国に取られることを恐れた。バンダでのナツメグ独占体制を着々と築いていった。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)