英、バンダに拠点 地元も歓迎
イギリスのフランシス・ドレイク卿の船団は、テルナテで大量の丁子を持ち帰り英雄として迎えられた。彼は香料だけではなく金・銀・真珠などもたっぷり持ち帰ったが、その大半はスペインとポルトガルの船から略奪したものだった。1588年にはスペインの無敵艦隊がイギリス海峡にやって来るのを知ったドレイクは、これを迎え撃ち同艦隊を完膚なきまでにやっつけている。この勝利により過去数十年間にわたって公海はスペインとポルトガルに独占されていたが、今や有力なもう一つの勢力が出現したのである。
イギリスでは、東インド諸島へ通商使節を送る気運が高まった。世界をスペインとポルトガルのカトリック両国で二分するという1494年に締結されたトルデシリャス条約に対し、プロテスタント系のイギリス国教会を確立したエリザベス1世は、その法的正当性を攻撃していた。1600年にイギリス東インド会社を設立し、1601年2月に東インド諸島に向かう冒険商人を乗せた5隻の船団がテムズ川を下った。このイギリス遠征隊の司令官は、スペインの無敵艦隊と戦った際に船長として指揮を執った経験のあるジェームス・ランカスター(1554~1618年)であった。
最初はポルトガルその後オランダが確立していた西ジャワのバンテンでこしょう取引を主に始め、そこで仕入れたこしょうとスパイスを満載した1隻をイギリスに向かわせた。ランカスターはもっと東のナツメグの原産地であるバンダ諸島に行けば、スパイスがより安く入手できることを知っており、彼はバンテンを離れる前にピンネース船(小型帆船)を残していくから東に行ってナツメグ・メース、丁子をできるだけ多く買い付けるように居残り組(わずか8人の船乗りと3人の商人)に命じた。この頃はまだ、ポルトガルとオランダは戦いでも貿易でも、イギリスを競争相手とは見ず軽んじていた。
■偶然の強風で
イギリスの船隊がバンテンを離れて帰国の途につくと、すぐにピンネース船は帆を上げ、海図のない海を東へと目指した。船は逆風に悩まされ2カ月の間、海上を行ったり来たりするばかりで、バンダ諸島に着くのは絶望的だったが、偶然の強風でルン島の岸辺に吹き寄せられ、勇敢なイギリスの船乗りは島民に友好的に迎えられた。それは1603年のことであった。イギリスはその陣容の規模が小さく、設備も整っていなかったので地元民から恐れられることもなく、むしろ歓迎されたという。
こうしてイギリスは、ネイラ島から約20キロ西のナツメグの木の生い茂るルン島に足を踏み入れ、以後この島を拠点にすることになる。ここはオランダ、ポルトガルおよびアジア商人から離れており、西モンスーン(6~10月)の期間は容易に近づけない位置にあった。ルン島の近くのアイ島にも基地を置き、両島でオランダをいらつかせることになるイギリスの旗が挑戦するように翻っていた。
1600年にイギリス東インド会社が、1602年にはオランダ東インド会社(VOC)が設立されたことは既に述べた。この2社は、アジアとの香辛料取引専門で始まった貿易会社である。両国以外にも、フランス、デンマーク、スペインなどによる小規模な東インド会社が存在したが、香料諸島の歴史の中では、英・蘭の東インド会社以外は、大きな実績を残していない。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)