香料取引に参入 オランダ人の到来

 ポルトガル人がバンダ諸島のネイラ島で砦(とりで)の建設を取り止めたのは、土地の有力者がポルトガルが広めようとしたキリスト教に関心を示さなかったので、ポルトガル人宣教師の熱意が冷めたことに加え、バンダ人がナツメグの取引によそ者の参入を許さないとの強い態度を示したことにより、この地に留まることを断念したためであるようだ。
 そしてポルトガルの活動の中心は、丁子の島のテルナテ島とティドレ島になっていった。バンダ諸島は、1512年にポルトガル人が来訪してから、その世紀の終わり頃までは、ナツメグの生産と取引面で外部から干渉されることは少なかったし、外敵の侵入の不安もなかった。
 インドのゴアやマレー半島のマラッカからテルナテに向かうポルトガルの船隊が、ナツメグとメースのために、あるいは水と食料の補給のためにバンダに立ち寄ることはあったであろう。ヨーロッパ人がバンダでの香料取引に本格的に参入してくるのは17世紀に入ってからである。
 その後ポルトガルの艦隊は1527年に西ジャワのバンテン沖に来ている。バンテンは、マラッカとスラウェシ島のマカッサルに競合するような東南アジアの重要な港であり、17世紀初めには重要な商業の中心地であった。バンテンでは、次に述べるオランダ人が来る前に既にポルトル人が貿易取引を始めており、イギリスも商館を持っていた。ポルトガル人がバンテンに留まった期間は70年余りで、1601年にはオランダがポルトガルの艦隊を撃破し、ポルトガル人はバンテンから逃げ去った。
90年遅れ、バンダに
 オランダがインドネシアに足を踏み入れたのは、1595年にコルネリス・ハウトマン(1565~99年)が指揮する艦隊が喜望峰を回り、インド洋を横断してスマトラ島、ジャワ島に至り、出航から1年2カ月後の1596年6月に、ジャワ島北西部のバンテンに上陸した時であった。そこでオランダが香料取引に本格的に参入したのは1598年である。翌年にはオランダの航海者がバンダ諸島に現れた。そのオランダの訪問者は、副提督のヤーコプ・ファン・ヘームスケルク(1567~1607年)の率いる商人、兵士、船乗りの200人からなり、1599年3月、ロンタール島沖にいかりを降ろした。ポルトガル人が初めてこの諸島に来てから90年近くたっていた。スパイスの原産地を突き止め、ポルトガルによる独占を食い止めることが目的であった。
 バンダ人は、この背が高く大きな新参者を用心深く迎えた。彼らにとってなじみのあるポルトガル人より恐ろしく感じたのだ。この頃、隣のロンタール島との争いが絶えなかったネイラ島には、外来者としては中国人、ジャワ人、ブギス人(セレベス島南西に住む民族で、造船や航海術に優れている)、ポルトガル人、およびアラブ人が居た。オランダ人は、ヘームスケルクの思慮深い態度により、次第にバンダ人の信頼を得るようになっていった。
 オランダ人は、自らをポルトガル人の敵であり、温厚で寛大な商人であると名乗り、バンダのオラン・カヤ(有力者)にどっさり贈り物をし、港の長には手数料を払い、オランダの商品とスパイスのバーター取引を始めることに成功した。オランダ人は、鏡、ナイフ、クリスタル、グラス、ビロードの布、火薬をオラン・カヤに与え、海岸沿いの2カ所に取引拠点を立てた。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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