マラッカからバンダへ ポルトガル人の到来
長年にわたりマレー、ジャワ、中国、アラブの商人たちがマルク諸島の香料をスポット買いし、それをペルシャ湾まで海上輸送、そこからキャラバン隊で地中海まで運び、コンスタンチノープル、ジェノバ、ベネチアまで届けていた。その経由する土地ごとの幾人かの仲介業者を経て香料を手に入れていたヨーロッパ人が、原産地から直接購入したいと、アジアに乗り出したのが大航海時代の始まりである。最初にバンダ海に現れたのは、南アフリカ南端の喜望峰を回って1498年にインドまで到達し、「ケープ・ルート」を開いたバスコ・ダ・ガマの跡を継いだポルトガル人であった。
16世紀に入りアジアに進出したポルトガル人の目的地は二つあった。一つはこしょうと肉桂(シナモン)を産するインド南西部のマルバル海岸であり、あとの一つは丁子とナツメグの原産地であったマルク諸島であった。なお、「香料の歴史」の著者である山田憲太郎によると、香料と呼ぶべきものは丁子、ナツメグ・メースで、こしょうとシナモンはそれぞれの名で呼ぶのが良いとしている。そういう意味で、丁子とナツメグの産地であるマルクの島々を「香料諸島」(Spice Islands)と呼ぶのは的を射ている。
バスコ・ダ・ガマの後継者と言えるポルトガルのインド総督であったアフォンソ・デ・アルブケルケ(1453~1515年)が、1511年にマレー半島の香料貿易の中継地として繁栄していたマラッカを占領した。彼はマラッカをポルトガルの香料貿易の拠点とすべく1年間マラッカに滞在し、そこで、それまでヨーロッパ人にとって「未知の土地」であった香料諸島へのルートを初めて知ることになった。アルブケルケは、1512年にはアントニオ・デ・アブレウをマルク諸島に向かわせた。アブレウ一行はわずか50トンの船3隻と120人の乗組員であったが、マレー人の水先案内人に導かれて、ヨーロッパ人として初めてバンダ諸島にたどり着くことができた。後に世界周航を目指したマゼランもこの一員であった。
香料に対するヨーロッパ人の強い欲望を知っていたバンダ島の住民は、奇妙な風貌をしたポルトガル人を喜んで迎えて彼らと取引することに戸惑いは見せなかった。彼らは1カ月間バンダに滞在し、待望のナツメグとメースを手に入れた後、マラッカへの帰途についた。
その船隊に属するフランシスコ・セラオが率いる船がアンボン島北のヒトゥ沖に座礁してしまった。テルナテのスルタンがそれを聞きつけ、コラコラ船を派遣し彼らを救助した。セラオはその後、1521年に死去するまでスルタンの顧問としてテルナテに留まった。ちなみに、彼の死去の8カ月後の1521年11月に、フィリピンのマクタン島でマゼランが殺された後、指揮を引き継いだエル・カーノの艦隊が、ティドレ島に到着している。
このような偶然で、セラオがテルナテ王のスルタンの信頼を得たことにより、ポルトガルのマルクでの最初の拠点はバンダではなくテルナテとなった。ポルトガルはテルナテから軍を派遣し、ネイラ島で砦(とりで)の建造に着手したが、建設途中で放置され完成には至らなかった。後に述べるが、次に来たオランダがこの砦の石造の基礎を利用して1609年にナッサウ要塞を建設している。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)