涼しい空気に包まれ ボロブドゥールとお別れ
最初にここを訪れたのは1978年であった。その時はボロブドゥール寺院に続く道沿いに古い民家が並び、軒先の合間からこつぜんとこの巨大な遺跡が現れたのが印象的で、深く記憶に残っている。今はこのように美しく整備された公園になっており、我がホテルもこの一角にあった。
また、これまで訪れた時はいずれも日中の日が高い時で炎熱の中、石造りの階段を上がって行くだけで大粒の汗、ゆっくりレリーフを見て回る余裕はなかった。その点今回は、暁の涼しい空気に包まれていたので、これまでになく時間をかけて鑑賞することができたのは何よりであった。実は、今回この階段を登り降りすること実に3回、堪能した。さて、ボロブドゥール寺院ともこれでお別れ。早朝から動き回りおなかもすいた。ホテルに戻り朝食だ。
■ラッフルズのこと
ボロブドゥールを去るに当たって、発掘調査に貢献したラッフルズのことについて触れておきたい。(信夫清三郎著「ラッフルズ伝」を参考にした。)
シンガポールの創設者として知られるトーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781年ジャマイカ沖の船上で生まれる~1826年ロンドンで没)は、14歳の時からロンドンの東インド会社で働き始め、1805年にマレー半島のペナン島に赴任し、マレー語を習得している。1811年ナポレオン戦争当時、フランスの勢力下にあったジャワ島へ英領インドから派遣された遠征隊に参加し、その力量を認められ、ジャワ副総督に任命された。ジャワ島がオランダに返還された1815年までの短い期間であったが、ジャワの土地改革などで実績をあげた。イングランドに一時帰国したが、1818年にはスマトラの南西海岸に位置するイギリス東インド会社の植民地ベンクーレンに副総督として赴任した。奴隷の解放と奴隷貿易の禁止、スマトラの農業改革・土地改革などを行った。ベンクーレンからシンガポールに着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得、1819年にはシンガポール港を開いている。
ラッフルズはインドネシアの滞在は短い年数であったが、植民帝国の政治家としての活動以外でも、ボロブドゥール寺院の発掘など多くの実績を上げている。その一つに「ジャワ史」という著作がある。これは単に歴史の記述だけでなく、当時のジャワ人の社会・生活の様子・文化・言語など多岐にわたる分野をカバーしている名著である。歴史学の他にも、植物学・動物学などにも興味を持っていた。なお、世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であった彼の名にちなんで付けられたものである。
ラッフルズは、最愛の夫人と3人の子どもをインドネシアで亡くしている。イギリス植民地帝国発展のため、バタビア(ジャカルタ)、ベンクーレン、シンガポールと走り回った彼の功績は、この過酷な瘴癘(しょうれい)の地で家族の犠牲のうえに成し遂げられたことであった。彼は評判の良い植民地主義者との評価が一般的であるようだが、他人の労働を搾取する人間が腐敗しない訳がない。ラッフルズもその例外ではなかったという見方もある。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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番外編は今回でおわります。