悲願の独立果たす 350年のオランダ支配から
1815年、フランスのナポレオンがワーテルローの戦いで完敗し、セントヘレナ島に幽閉され、ナポレオン戦争が終結すると、イギリスは東インド植民地をオランダに返還することになり、オランダによるインドネシア植民地支配が再開した。
蘭印政府の総督ファン・デン・ボスが1830年に「強制栽培制度」による植民地経営を始めた。もはや丁子、ナツメグなどの香料への需要は低下しており、それに代わった換金作物がコーヒー、茶、サトウキビ、インディゴ(藍)などである。これらをジャワ島全州の農民に強制的に栽培させ、その収益により本国オランダに多大な富をもたらせたのである。
この制度を始めた背景には、反オランダ民族主義の戦いであるジャワ戦争のための戦費調達や本国の財政状況悪化があった。この強制栽培制度は農民の米作を強く圧迫し、ジャワ人を飢饉(ききん)に陥れることになった。あまりにも現地人に過酷な制度であり、農民の反発によりさすがのオランダも1870年に一応終止符を打っている。それ以降はオランダの植民地支配はより巧妙さが増していくことになる。
強制栽培制度を進めていくために、オランダがいかに狡猾(こうかつ)で非人道的なことをしたかという次のような話がある。「オランダ人は、ある水田地帯のため池に毒薬を流し、その水を飲んだ多数の水牛が死ぬ。伝染病の発生の恐れがあるとの理由で農民を立ち退かせて、その一帯を接収し、後にそこをサトウキビ畑に変えさせた。それまで多毛作の米を作り、自給自足でそれなりに豊かな生活をおくっていた農民たちは、サトウキビでのわずかな収入では十分な米を買うこともできず、生活は大変困窮してしまった。そういう中でもインドネシア人はオランダに抵抗することはできず、(まるで日本の大名行列の際の農民のように)オランダ人の前では土下座し、彼らの靴を見て震えていた」。
これは、この時代を背景にしたあるインドネシア人作家による小説に出てきたのであるが、どの小説であったのかは、残念ながら覚えていない。この話がオランダのインドネシア支配の圧政を象徴する一つの事例として鮮明に記憶に残っているので、ここに記しておく。
オランダは1596年に初めて香料諸島にやって来て、1602年にはオランダ東インド会社(VOA)を設立。その後、イギリスと日本が支配する一時期を除いてなんと350年もの長きにわたり、インドネシアを支配した。日本の太平洋戦争敗戦直後の1945年8月17日、初代大統領のスカルノと副大統領のハッタの両名によって独立宣言が発布されたが、その後オランダは再びの支配を狙って、インドネシアに戻ってきた。
オランダ相手の激しい独立戦争に勝利し、インドネシアが主権を取り戻したのは1949年12月27日のことである。この日にインドネシア連邦共和国が成立し、翌年の8月15日には、単一のインドネシア共和国が誕生した。こうして幾多のオランダに対する抵抗の歴史に終止符を打つことができ、悲願の独立を達成したのである。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追った。歴史編は今回で終了する。