いよいよティドレ島 テルナテから1キロ

 テルナテ島からティドレ島に渡る日の朝、朝食前にホテルの山側を散歩する。天候も良く、風も爽やか。ガマラマ山の頂上がくっきりと見える。裾野がなだらかに広がる典型的なコニーデ型の火山だ。ほんの1カ月前に空港を閉鎖させるほどの噴火があったのだが、この日は穏やかな表情を見せてくれている。
 テルナテでは2日間で4カ所の要塞跡を訪れた。オラニエ要塞、カラマタ要塞、トルッコ要塞、それにガマラマ要塞である。周囲44キロという小さな島にこれだけの要塞があるということは、それだけこの島が、ポルトガル、スペイン、オランダそしてイギリスの植民地政策にとって重要であり、丁子という香料を手に入れたいとする欲望が強かったかを示している。しかもこれらの要塞の主が、その時の力関係によって目まぐるしく変わっていったのである。
 今はいずれも廃墟として静かにたたずんでおり、我が一行を除いて訪れる人も極めて少ない。遥か故郷を離れた多くの人々が、夢と欲望に支えられ、命をかけた航海や敵との戦いのみならず、慣れない土地での日々の生活を乗り越えてきたかを思うと、果てしない欲望を追い求める人間の行動力、そしてその背後にある苦しみや悲しみを感じざるを得ない。
■常にライバル関係
 ティドレには1450年から1904年まで続いたスルタン王国があり、最盛期には、ハルマヘラ南部や、一時はブル島、アンボン島の他にニューギニア沖の島々まで支配下に置いていた。隣接するテルナテとは常にライバル関係にあり、争いも絶えなかった。
 16世紀後半から17世紀にかけてティドレは、テルナテに対抗するヨーロッパ勢を支持している。テルナテが1575年にポルトガル人を追い出した時、ティドレはポルトガル人を迎い入れて、要塞の建設を認めた。このポルトガルの要塞は1606年にはスペイン人によって奪取され、ティドレはオランダと敵対関係にあるスペインを迎えたが、スペインは1663年にはティドレ島およびテルナテ島から撤退した。
 その後オランダ東インド会社がティドレを支配するが、ティドレのスルタンは抵抗を続け、18世紀後半まで独立した王国の地位を維持していった。その後もオランダの支配下でスルタン王国は存続するが、1905年に最後のスルタンが亡くなった後、22代続いたティドレのスルタン王国は幕を閉じたのである。
 正午時にテルナテ中心部のバスティオン港発のフェリーに乗る予定だったが、実際に乗り込めたのは午後1時を過ぎてからであった。待ち時間を利用しフェリー乗り場でパンをかじり昼食にする。朝方晴れていたガマラマ山の頂上付近は、既に雲に覆われている。船上からのテルナテの市街やティドレ島、その間にある小さなマイタラ島の景色を楽しんでいるうち、あっという間の30分ほどで到着した。それもそのはず、テルナテ、ティドレの両島の距離は、直線距離ではわずか1キロ程度なのである。この二つの島が、それぞれ王国を持ち、お互い憎み争い合っていたというのが不思議に思われるほどの近さである。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)

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