【魚の町とインドネシア】(上) 震災後も存続支える 震災から1年の気仙沼
昨年三月十一日の東日本大震災から一年。津波と火災が襲い、漁港周辺や市街地が壊滅的な被害を受けた宮城県気仙沼市では震災前、多くのインドネシア人が働いていた。昨年六月にはユドヨノ大統領が訪問し、津波の被害にあった漁港や仮設住宅で被災者を慰問したことで、日本を代表する遠洋マグロ漁業の基地である気仙沼とインドネシアの結び付きの強さに改めて注目が集まった。震災を機に協力関係強化の道を探る漁業の町とインドネシアとのかかわりを追った。(関口潤)
二月末、気仙沼漁港に停泊した漁船の上でインドネシア人船員が石焼き芋をほおばっていた。「天然の良港」と呼ばれる気仙沼の波は穏やかだが、冷え込みは厳しく、海水は突き刺すような冷たさ。漁港の周りは建物がほとんど建っておらず、機能の完全復旧への道筋はまだまったく見えていない。
数日後に控えた出航のため、荷物と食料を積み終えて休憩していた三十代前後のインドネシア人船員たちは「漁師としての仕事はどこでやっても同じ。津波が起こったから怖いとは思っていない」とあっけらかんとした様子だ。
新栄丸の乗組員十八人のうち、八人がインドネシア人船員。年八回、三十五―四十日の航海を太平洋の北西部で行う。震災時は沖合いにおり船も船員も無事だったが、港が壊滅したため漁をすることができず、三月中に全員が帰国。マグロの水揚げが再開した八月に帰ってきた。
新栄丸を所有する鈴木一朗さんは日本食にも慣れ親しむインドネシア人船員を眺めてつぶやいた。「気仙沼のマグロ漁業はインドネシア人船員のおかげで三十年、延命させてもらったんだ」
■「日本人と相性良い」
気仙沼でインドネシア人が船員として働き始めたのは約三十年前。現在、遠洋マグロ漁船の三分の一の船員が日本人幹部で、残りの船員はすべてインドネシア人。かつてはフィリピン人や中国人などの乗組員もいた。
漁業関係者は「インドネシア人は日本人と相性が良い」と口をそろえる。特に遠洋漁業は狭い船内で数カ月から一年の共同生活を行うため、温厚で協調性があることが必須だという。船のオーナーや船員は皆、「パサール・イカン(魚市場)」「マンディ(水浴び)」など簡単なインドネシア語を話すことができるなど、三十年掛けてインドネシア人船員との関係を築いてきた。
■担い手なく衰退へ
かつて日本の遠洋漁業は栄え、一九八〇年ごろにピークを迎えた。戦後、水産業が複合的に発展した気仙沼は遠洋マグロ船の基地となった。だが現在は漁船数が約五分の一に。政策研究大学院大学の小松正之教授によると、人件費の上昇や漁業資源の枯渇などで「限られた資源の奪い合い」が生じ、日本の漁業は衰退。加えて若者が厳しい労働を敬遠して、人材不足は深刻化した。その穴埋めとなったのがインドネシア人船員だった。
専門家は漁業者に漁獲枠を割り当てて過当な競争をなくすことで、各漁業者の経営が改善すると訴えている。「震災前もすでに限界だったが、震災があったからなおさら改革が必要だ」と小松氏は語るが、震災から一年経った今、構造的な改革の議論は進んでいない。
■「彼らには夢がある」
「漁業労働への評価が低い」と嘆くのは気仙沼遠洋漁業協同組合の齋藤徹夫代表理事組合長。「日本の漁民はあくせく働いて生活するのがやっと。彼らには夢がある」。新栄丸のインドネシア人も漁船での労働を終えた後は、マドゥラ島など故郷で自営業を営むのが目標と語っていた。
「山が迫っている地形で、大規模な工場を作ることはできず、海で生きていくほかない」と齋藤さん。「正直に言えば本当は日本人に漁業を担ってもらいたい。でもインドネシア人船員の手を借りてでも、日本の漁業を守っていきたいんだ」。気仙沼の漁業関係者たちは、町の基幹産業である漁業の復興への道のりをインドネシア人船員たちとともに歩み始めている。(3回連載、つづく)
◇東日本大震災による気仙沼市の被害
東日本大震災で気仙沼市では震度六弱を観測。地震発生から約三十分後に第一波の津波が襲い、流出した重油などに引火して大規模な火災も発生した。宮城県によると、二〇一二年三月十一日時点で、死者千三十二人、行方不明者三百二十四人。八千四百八十三棟が全壊し、二千五百五十二棟が半壊した。現在も人口の約一割に当たる八千人以上が仮設住宅で暮らす。
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