【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(16)】 スッポンのごとく 中村光男
あのフワッとした丸顔、ニコニコしながら目は笑っていない鋭さと、初めて出会ったのは、何時だったろうか?
一九六〇年四月、草野青年は安保反対デモの渦巻く東京に来た。彼は東京外大、私は東大Cのデモ隊―私たちは、いつも早稲田、中央、明治、東大本郷の大部隊の後塵を拝していた。清水谷公園で、日比谷野外音楽堂で、そして国会と首相官邸前で、私たちは出会い、すれ違った。緊張した丸いニコニコ顔が、かすかに記憶に残っていた。
再会は二十年後、一九八〇年のジャカルタ。草野さんは毎日新聞のジャカルタ支局長、私は豪州を拠点に現代インドネシア・イスラムの研究に従事。スハルト大統領は開発独裁の頂点に上り詰めようとしていた。翼賛体制の確立を目指し、遮二無二に強権を発揮。特にイスラム勢力には、「パンチャシラ単一原則」を押し付け、その受け入れをめぐって緊迫した情勢が続き、各地で流血事件が起こった。
反体制派知識人や宗教指導者に近かった私は、草野さんの格好の取材源となった。ジャカルタを訪れる私を待ち受け、草野支局長はスッポンのごとく執拗に取材した。イランのイスラム革命の影響は? ムハマディア、NU(ナフダトゥール・ウラマ)のパンチャシラ受け入れは本心か妥協か? 「開発政策」で民衆の生活はホントに良くなったか? スハルト体制は何時まで続く? ポスト・スハルトの展望は? 質問は尽きることがなかった。この草野スッポンと、「よしこ」で「菊川」で何時間、盃を交わしたことだろう。
八六年、マニラに移った草野さんから、千葉大の私に「息子を頼む」というメッセージが来た。本人は面白い子だったが、結局、制度や環境に馴染まなかった。今でも心残りに思う。
九八年五月、スハルト政権崩壊。その直後、私は「改革の嵐」を身体で感じるためジャカルタに来ていた。ハビビ、メガワティ、グス・ドゥル、アミン・ライス、アクバル・タンジュンらと次々に会った。草野スッポンは、私の動きを嗅ぎ付けた。「よしこ」を定宿にした私に、幾夜となく看板まで、いや看板のあと深夜まで、マダムが呆れて、「私は失礼しますわ。あとはご自由に。板サンに何でも言って下さい」と退場した後も、スッポンは私に優しく、柔らかくインタビューを続け、新しい情報を搾り取った。
「相談があります」と、普段とは違ったアプローチを受けたのはそのころ。「じゃかるた新聞」発刊の計画だった。「無謀ではないか?」が私の最初の反応。引き揚げ者が続出する日本人社会をベースに何ができるというのか? しかし、草野スッポンは動揺しなかった。混乱する日本人相手だからこそ、新しいインドネシアの発展をフォローするローカルメディアの意義があると熱っぽく語った。そして一九九八年十一月、じゃかるた新聞がついに発刊された。
それから、十三年余、これほど全力疾走した報道人を私は知らない。(千葉大名誉教授)――同年代として安保闘争に参加、その後、インドネシアを軸に交流。