【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(14)】 最後の講義とエール 長洋弘
一九八二年、私の勤務先ジャカルタ日本人学校に毎日新聞ジャカルタ支局長だった草野さんが姿を現した。あのスマイルを浮かべてである。
私が案内したが、彼の興味は立派な建物や校庭でなく、学校を取り囲むコンクリート壁上に巻かれた鉄条網だった。数日後、新聞に掲載されたのは「周囲と隔絶した日本人学校、異文化理解も口だけ」というような記事だったように記憶している。後日、私が上司から叱責されたことは言うまでもない。
あの草野スマイルに私は何回かだまされている。二〇〇五年ごろだったと思う。じゃかるた新聞社に夕方うかがうと、スマイルで歓迎した彼は、新人記者を捕まえ、私ともども小部屋に連れ込んだ。新人君が写真家としての私を取材したのだが五分も経たないうちに、草野さんの怒声と叱責と罵声とが室内を振るわせた。
これにはまいった、えらいところにきた、と思った。要するに私は新人教育のカモにされたのである。後々、私は知ることになる。あの草野魂こそが、世界に通用する記者を育てあげたのだと。
そしてこの経験は、写真家としての私に大きな影響を与える。つまり、追求の手をゆるめない作品づくりこそ写真家の命であるということをである。
二〇〇八年、インドネシアと日本国交樹立五十周年記念イベントが両国で行なわれ、私はインドネシアを取材した。私の取材対象は、「世界遺産」と「日本とインドネシアの懸け橋になった百人」であった。後者は、市井の人からVIPまで様々だったが、草野さんもそのうちの一人に予定していた。
帰国中の彼と池袋の喫茶店で朝十時に会い、解放されたのは夜八時、なんと! 十時間。すでに病魔に冒されていたと思われるにもかかわらずしゃべりまくったのである。その間、私は彼を数カット撮影しただけだった。
その年の十二月、東京ビッグサイトで写真展は行われたが、草野さんの写真は使わなかった。映像が弱かったからである。しかし、あのスマイルを浮かべた草野さんは会場で私に近づくと、新人君を教育したように私の作品を酷評したのだった。
今思えば、池袋の十時間はジャーナリスト草野靖夫の最後の講義であり、私へのエールだったように思えてならない。(スラバヤ日本人学校長・写真作家)――1982年から親交を深める。林忠彦賞、社会貢献賞受賞。近書に『バパ・バリ三浦襄』がある。