【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(12)】 まぶしい現役記者 水本達也
東京で約二年前、草野さんの半生を「取材」したことがある。
私はその時、一九八〇―九〇年代の日本企業の東南アジア進出で現地に駐在した経験から、定年を迎えて再びかつての任地に戻って現役を続ける日本人の人生観を探る企画に取り組もうとしていた。最初はいつものごとく助言をいただくつもりが、気がついたら草野さんの記者人生に夢中で耳を傾けていた。
草野さんは駆け出し時代からその時にいたるまでに遭遇した事件を、つい昨日のことのように話してくれた。その物語は取材対象への情愛にあふれ、激動のアジアの情景を浮かび上がらせた。毎日新聞を退職後、ジャカルタに復帰した経緯を訊ねると、さまざまなめぐり合わせとともに、九八年のスハルト政権崩壊前後の混乱を日本から見ていて「これはもう、ぼくがいくしかないと思ったんだ」と答えた。
だれでも一度は仕事場で「自分しかいない」と思える充実した黄金時代がある。やがて体力や気力が衰え、次世代の台頭とともに一線から引くことを余儀なくされる。しかし草野さんは、世の事象に対する興奮と情熱をいつでも忘れない、まぶしい現役記者だった。
初めてお会いしたのは、二〇〇一年五月に私がジャカルタに赴任してからだが、その存在は草野さんに私淑する友人を通して学生時代から聞かされていた。ベテラン風を一切吹かさない大記者は、無知な新参者に仕事も遊びも惜しみなく手ほどきしてくれた。
いつも穏やかな草野さんは、取材現場で筋を通す記者だった。〇四年、北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんが夫と再会するためにジャカルタに滞在した際、日本からも百人以上の報道陣がやってきた。記者会見で日本政府当局者の木で鼻をくくった受け答えに「ちゃんと質問に答えなさい」と猛然と怒ったのは、草野さんだけだった。
「アジアからニュースを発信したい」「日本と東南アジアの関係を現地の日本人の動きからまとめたい」「ぼくはサヨクだからさ…」。話し出したら止まらない草野さんの言葉にはみずみずしい好奇心と古老の知恵のようなものが交じった不思議な魅力があった。「やりたいこと」がたくさんある人で、「よい仕事をしたね」と後輩に声を掛けるのも忘れなかった。
昨年末、草野さんが病床で「あの大震災で日本は変わったのかなあ」とつぶやいたのを覚えている。原発事故で揺れた福島県は出身地。口にはしなかったものの、「ぼくがいくしかない」という強い気持ちを全身で表していた。草野さん、勉強になりました。本当にお疲れさまです。(時事通信外信部記者)――2001年5月―05年12月までジャカルタ特派員。この間や帰国後も交流を続ける。