【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(10)】 真実を見極める目 宮原豊
草野さんと初めてお会いしたのはマニラです。八三年八月にアキノ元上院議員がマニラ空港で暗殺され、世界中のマスコミがマニラに殺到しました。
その中でもとりわけ、草野さんと親しくなりました。「つぶらな目がいつも優しそうに微笑んでいる人。経験豊富で用意周到だが、怖いもの知らずで機動力に富み、一人で何でもこなす人だ」というのがその時の印象。当時、「毎日は経営が苦しかったから何でも一人でやらなければならない」と言う草野さんに、「それなら経営危機も悪いことばかりではない」と混ぜっ返したのですが、約二十年後に東京で再会した時には、肯定も否定もせずただ笑っていました。
事件は膠着状態が続き、各社が経済や社会ネタなどを追いかける中、草野さんはひときわ異才を放っていました。ルソンの山中やミンダナオの密林で反政府武装ゲリラのリーダーとの単独インタビューを何回も実現。素人の度肝を抜くような話ばかりでした。
八六年二月にマルコス政権が倒され、未亡人のアキノ女史による新政権が誕生。約十カ月後にアキノ大統領が訪日し、帰国直後に発生したのが三井物産・若王子支店長の誘拐事件でした。怪情報が乱れ飛び、マスコミの取材合戦も激化しました。
八七年一月二十二日には、農民運動のデモ隊を阻止しようとする警察隊が発砲。現場は大混乱に陥り、十二人の死者が出ましたが、日本のマスコミにはほとんど報じられませんでした。その日は若王子氏解放の可能性が高いと、早くから成り行きを見守っていたのです。夕方、東京で某テレビが「解放された」と報じ、各社は「特ダネを抜かれた」と大騒ぎに。前から草野さんと夕食の約束をしていた私はたまたま支局を訪れ、朝刊締め切りの真夜中まで五時間強を一緒に過ごしました。草野さんは「自分の情報網には解放の情報はない」と誤報の可能性が高いと確信しつつも、事実関係を慎重に確認していたようです。
それにしても、日本のマスコミはフィリピンでよくガセネタをつかまされていました。特ダネを意識しすぎていつの間にか情報の罠にはまり込んでしまうのかもしれません。柔らかくて温かいアジアの人間関係が目を曇らせてしまうのではと勝手に想像しています。
一方、草野さんは温かい目を持ちながらも、アジア各国での幾多の取材経験を通じ、言葉だけでは理解できないアジアの人々の心を深く理解していたし、一人で何でもこなしていたため、それが独力で真実を見極める力になっていたのでしょう。マニラでの約四年間に草野さんには大切なことをたくさん教えていただきました。ありがとうございました。(海外技術者研修協会=AOTS=理事、元ジェトロ・マニラ調査担当)