【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(6)】 いま・ここ・じぶん 大塚 智彦
「昨日のこと忘れました。明日のこと知りません」。東南アジアに生きる市井の人々の生活はとても貧しい。でも「言葉を変えれば」ではなく「見方を変えれば」そんな彼らの生活、生き方は質素で無駄がなく、そして「人間らしい」。
夜の帳に包まれ気怠い風が心地よいジャカルタ・アンチョール海岸のベンチ、じりじり忍耐を焦がす熱気にかかる飛沫もたちどころに乾くバンコク・チャオプラヤ川を疾駆するボート。思い出す草野さんとの情景には、愛して止まなかった東南アジアの瞬間が凝縮されている。そしてその情景の中に必ず登場するのがインドネシアの、タイの普通の人々。
「あのう、迎えとかは」。初めてのバンコク出張を伝える電話口での私の一言に「新聞記者は自分で目的地に辿り着くのも仕事、甘えるな」と喝。見知らぬ国、土地、通じない言葉、分からない交通手段と料金相場、そういうものと「格闘しながら」、いやいや草野用語なら「戯れ、学びながら」目的地に向かうことの重要性を教えようとする喝だった。それは「道を尋ねる空港案内所の係員や警察官、乗り込んだタクシーやバス、ボートの運転手や同乗者との会話、身ぶり手ぶり、筆談こそが取材の第一歩なのだ」という草野さんの信条に他ならなかった。アンチョールの浜では怪しげな女人らに声を掛け、チャオプラヤ河岸では屋台のおやじ、おばはんと掛け合い、彼らの心に飛び込み、心の障壁を自然に開かせ、その奥の喜怒哀楽を聞き出してしまう、根っからの「人間大好き記者」だった。
毎日新聞、アジア・タイムズ、じゃかるた新聞と各時代を通じ、「濃くも薄くもない」位置から見守ってくれた。「ボートが便利だよ」と言われたアジア・タイムズ社屋にバンコクを走る水路をボートを乗り換え、筆談、身振りでなんとか到着した時の「おっ、来れたか」という笑顔。ブルネイでのASEAN会議に特派された草野さんの同僚で元米政府高官の記者の部屋に、入手した共同宣言案を滑り込ませた時の「おっ、ありがとう」という言葉。
「昨日のこと忘れました。明日のこと知りません。でも、『いま・ここ・じぶん』を心を込めて懸命に生きている。東南アジアの人々は」。そうですよね、草野さん。そしてあなたもそうでした。合掌。
◇大塚 智彦氏
1994―2000年に毎日新聞ジャカルタ支局長。草野氏が選んだ、スハルト大統領と隣組のチュンダナ通り33番地の支局兼住宅の最後の住人。