【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(4)】 病床で原発めぐり熱弁 上村 淳 

 一九八〇年代初めの学生時代、購読していた毎日新聞でジャカルタ発の草野さんの記事はほとんど読んだ。日本と結び付きが深い大国である割に、ニュースが少なかったインドネシア。その実情を活写する文章に感銘を受け、あこがれた。
 初めてお目にかかったのは九三年五月、国連暫定統治下のカンボジアで実施された総選挙投票日のプノンペン。私は共同通信記者として初の海外出張だった。その後プノンペン、バンコク、さらにジャカルタに二回の勤務で、一緒の街で暮らし、草野さんから多くを学んだ。
 草野さんの人生は日本メディア現代史そのものだ。最初に入った英ロイター通信の東京支局は同じ建物に共同通信本社も入居。原稿やフィルムを時に伝書バトに託す時代だった。毎日新聞の社会部では、ロッキード事件で各社の花形記者が競う米カリフォルニア州に出張。特派員最後の連載企画ではテレビの普及による東南アジア社会の変容を取り上げた。退社後バンコクで「アジア・タイムズ」創刊に参画。「アジア人によるアジア人のための国境を越えた英語新聞」という高い志を掲げた新聞だったが、アジア通貨危機のあおりで夢破れ短命に終わった。
 やはり通貨危機の直撃を受けたスハルト政権が倒れると、報道が自由になったインドネシアで、じゃかるた新聞を立ち上げる。創刊準備に着手された時、私がちょうどジャカルタに赴任した。私自身も期待を膨らませ、創刊直後は毎晩のように編集部に押しかけて議論した。
 昨年夏、私は福島第一原発事故のニュース担当を命じられ、二十年近く籍を置いた外信部から、非常に異例の人事で、科学部に移った。それを国立がん研究センターに報告に行くと、草野さんは病床にあっても原発事故をつぶさにフォローされていた。病院の休憩室で、少年時代を過ごした福島県いわき市の思い出をはじめ、原発の歴史と問題点、今回の事故報道について二時間以上、熱弁を奮ってくださった。私は難しい取材のかじ取りをする勇気を与えられた。今も天国から力強く励ましていただいていると感じる。原発報道には批判が多いが、本質的な報道ができるよう全力を尽くすことで草野さんのご恩に報いたい。(共同通信科学部担当部長、元ジャカルタ支局長――プノンペン、バンコク、ジャカルタの3支局で勤務した通算約9年の滞在期間が重なった)

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