【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(2)】 アジアが失った記者 大川 誠一
人が歴史を創るのか、それとも歴史が人を創るのか。アジア現代史を綴り続けた草野靖夫さん。大きな変貌を遂げるアジアを舞台に、人々の営みと歴史の変遷を追い続けた。
一九七〇年代初めから続けてきた、日本の主要紙に掲載されたアジア関連記事のスクラップ。そのノートに今も強烈な印象で残るルポタージュ。それは、草野さんが八〇年代の毎日新聞ジャカルタ特派員時代に、シリーズでリポートした首都の路地裏物語だった。その横丁便りには、無名の庶民の喜怒哀楽が、まるで動画を見るかのように生き生きと描かれていた。
アジア報道の大先輩を「過去」にしたくはない。彼は僕の記者心の中ではいまだ生き続けている。過去を記録することは歴史を創ることでもある。アジアのアジア人によるアジアのための報道。それこそ草野さんが追い求めてきたジャーナリズムではなかったのか。その生き様は、老いても「新聞少年」そのものだった。
僕にとって草野さんはあのルポタージュが原点。あれこそが、巨大なカンポンだったジャカルタの素顔を初めて僕らに伝えた。
そしてフィリピン。マルコス政変が起きた一九八六年。ズックが壊れるまでマニラの街のあちこちを歩き回った。民主革命が進行中のマニラ。草野流に路地裏に入り込んだ。そこに草野さんがいた。マラカニアン宮殿の動静以上に、庶民の声をこまめに集めている現場主義の記者姿だった。彼は言った。『独裁は必ず終わる』と。大衆の中で、庶民の目線で未来像を確信していた。
アジアは無情にも、最高の記録者を失っても歩みを止めない。誰が草野さんに代われるというのだ。歴代の自称「アジア通」の誰がいまだにアジア諸国を駆け巡り、思いを馳せているのか。僕は知らない。草野塾が輩出した多くの若手記者。彼らの志に期待したい。
半世紀にわたりアジアジャーナリズム史を創り、そしてアジア史は稀有のジャーナリスト草野靖夫を創った。アジアはかけがえのない日本人記者を失った。(インドネシア文化宮代表兼メトロTV東京支局長――マルコス政変の取材で一緒になって以来、アジア取材で親交を深める)