草野靖夫氏お別れ会開く じゃかるた新聞初代編集長 「社会の役に立つ喜び」
一九九八年十一月の創刊から昨年十一月の十三周年までじゃかるた新聞の初代編集長を務め、今年一月二日に悪性リンパ腫で急逝した草野靖夫氏(享年七二)のお別れ会が十四日、中央ジャカルタのホテル・サリ・パン・パシフィックで開かれ、鹿取克章駐インドネシア日本大使ら、生前の故人と交流があった友人たち約百人が集まった。
会では、黙祷や経歴紹介のあと、大学時代の同期で、足かけ五十年以上の付き合いがあるジャカルタ在住の久保雄二さん、故人が毎日新聞ジャカルタ支局長を務めた一九八〇年から公私ともに交流を深めた濱田雄二さん、弁論大会などを通じ、ともに日本とインドネシアの交流に尽くしたダルマ・プルサダ大学前学長のカマルディンさんが友人代表としてあいさつ。
久保さんは「じゃかるた新聞を立ち上げる前に相談を受けたことがあり、『採算は度外視する』と聞いてびっくりした。あまりにも早く逝ってしまったが、一生懸命人生を生きるという意味で良い人生だった」、昨年三月に一緒にアチェを訪れた濱田さんは「いまだに天国から『頑張ってよ』と指導の声が聞こえてくるような気がする。これでお別れという気はしない。これからも天国から指導やアドバイスをお願いします」、カマルディンさんは「学長になってから、いろいろなところでお会いし、記事もたくさん書いてもらった。ほがらかな人だった」とそれぞれの思い出を振り返った。
親族からは、長女の中橋美樹さんがあいさつ。中橋さんの小学生の娘が、「どうして新聞記者になったのか」と尋ねた時のエピソードを披露し、「即座に『世界のたくさんの素晴らしい人に出会い、そうした人々の考えや言葉を伝えることで世界が変わる。社会の役に立つ。それが一番の喜び』とうれしそうに答えた」と話した。
日本での偲ぶ会は四月下旬から五月中旬の間に東京で開催することを予定している。
常に全速力でいまを生きる、好奇心の塊だった。亡くなる一週間前の昨年十二月二十六日には、念願のアイフォーンを手に入れたばかりだった。
昨年十月にがんで亡くなったスティーブ・ジョブズの伝記に線を引いては、何度も読み返していた。アイフォーンの最新機が発売されると、築地の病院を抜け出して有楽町の電器店まで行ったが、予約をしていないので購入できなかったと憤慨した。ジャカルタとスカイプで交信するために病室を空にすることも多かったからか、昨年十一月に訪れた際には、「ここ(ベッド脇の地面)にセンサーが取り付けられているから降りれないんだよ」と嘆いていた。
会社では、三回りも四回りも年が違う若者たちと張り合うように、新しい携帯電話を購入しては、あの太い指で小さいキーボードと格闘していた。入院後は「アイフォーンを買わないと死ねない。ジョブズの忘れ形見だからね」と話していた。
一方、その「いま」を切り口に、外交問題から政変、爆弾テロ、庶民のちょっとした生活の変化に至るまで、インドネシアで起こる様々な事象を、歴史の長さという縦軸、地理的な広さの横軸という文脈の中で捉え、われわれに時代を考えるヒントを提示してくれた。そのスケールたるやあまりにも壮大で、どこから手を付けていいか分からないほどだった。
いつも全身全霊で人と接していた。会社に客人を迎えると、締め切りもなんのその。三時間でも四時間でも話し込み、周りをハラハラさせた。その根底にあったのは、「社会に貢献する」ということ。昨年六月、二年以上のがんとの闘いでぼろぼろになった身体にむち打って、ユドヨノ大統領が訪問する気仙沼に向かった。素泊まりをしながら、最後となった現場取材に挑んだのも、その気持ちがあってのことだった。
勢い余って人前で怒鳴り声を上げることもあったが、そのひたむきさと包容力のある笑顔を見ると、最後には納得してしまうのが常だった。
草野さんの薫陶を受けたかつての若者たちがいま、世界中に散らばっている。そのわれわれが真摯に今を生き、社会に役立つ存在となっていくことが、草野さんがこの世に生きた何よりの証となるだろう。(じゃかるた新聞編集長・上野太郎)
1955年のアジア・アフリカ会議を皮切りに、非同盟諸国が希望に燃えていた時代の東京外国語大学インドシナ科在籍時からアジアの他国に思いを馳せ、毎日新聞時代にはジャカルタ、マニラ、バンコク、プノンペン支局長を歴任。新聞記者として、東南アジアを主な活躍の舞台に半世紀を駆け抜け、現代アジア史の貴重な目撃者となった故・草野靖夫氏を偲び、これまでに故人と交流があった方々の寄稿による連載「アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ」を16日付紙面から始めます。