【火焔樹】 星空の彼方に
ジャカルタの空にはほとんど星が見えない。これだけたくさんの自動車やオートバイが走っていて、排気ガスの規制もほとんど守られていないとなれば、空気も汚染され星が見えなくても仕方ないとあきらめるしかない。
小学生のころ、夏休みを利用して家族でインドネシアへ遊びに来た。その時に、父親の田舎のガルット(西ジャワ州)で見た星空は今でも忘れられない。当時のガルットの夜は、民家の豆電球の光が窓からこぼれ落ちる程度で、夜は暗闇に近かった。しかし、夜空を見上げれば星と星が所狭しとひしめきあい、キラキラとダイアモンドのごとく輝きを放っているのだった。
自動車の中に座っていても、座高が低い子どもの目線の向こう側にフロントガラス一杯に星が広がり、地平線の先から頭上まで、前後左右どこを向いても見渡す限り夜空は輝く星で埋めつくされていた。一緒にいた母は「素晴らしい」と感嘆の声を上げながら、私の手を「ぎゅっ」と握り締め、そんな夜空を見つめていた。まるで宇宙の真ん中に放り出されたようだった。
この時、私は星の多さとその輝きに圧倒されながらも内心ではどこか恐怖心を抱き、心臓の鼓動が高鳴っていたのを覚えている。母は、そんな私の心を見抜くかのように「大丈夫だよ」と安心させるために、私の手を握ってくれていたのだと思う。それほど、星がたくさん見えていたのである。
宇宙はどんどん膨張しているという。科学者たちがその理由を必死で解明しようとしている。だけど、いつかこの謎が科学的に明らかにされようとも、私には信じて疑わないことがある。それはきっと、亡くなった人の魂が昇華して宇宙にたどり着き、そこに居場所を見つけて星となり、地球の家族を見守っているということである。
何の根拠もなく子ども染みた話でお恥ずかしい限りだが、人類の誕生から今日までどれくらいの魂が昇華したかを思うと、子どものときに見た星と同じくらいの数があっても不思議ではない。だから星が増え続け、どんどん宇宙が広がっていくのだ。星の輝きは、生きている時のそれぞれの頑張りに比例するのだろう。
だから、最近見えるようになったあの星は、亡くなった母のものに違いない。母が亡くなって一年を迎える。ジャカルタの汚染された夜空でも、毎日光り失せることなく輝き続けている。(会社役員・芦田洸)