スナヤン・スクエア20周年 通貨危機で一時は撤退論も STSの大石修一社長
日本の鹿島建設が開発した中央ジャカルタ・スナヤン地区の複合商業施設「スナヤン・スクエア」に最初の大型施設であるショッピングセンター「プラザ・スナヤン」とデパートの「メトロ」がグランドオープンしたのは、ちょうど20年前の4月26日のこと。この日は、同時にインドネシア政府と結んだ期間40年のBOT(建設・運営・移管)契約の発効日でもある。同事業に最初期から関わっていた鹿島の関係会社で施設を開発・運営するスナヤン・トリカリヤ・スンバナ(STS)社の大石修一社長に、思い出と今後の展望を聞いた。
同開発事業は、国有地の1962年アジア競技大会の選手村跡地(約29ヘクタール)を再開発し、商業施設、オフィスビル、高級アパート、ホテルで構成する国際的水準の複合施設に変貌させようとするもの。投資額は約1千億円、鹿島にとっても最大級の海外事業だ。
20年前に商業施設の責任者だった大石さんは、「工事は93年から始まっていたが、周りは草むらだらけだった」と話す。
97年にオフィス・1、98年にはアパートA棟とB棟が開業し、事業は順調に進むかにみえたが、97年にタイで発生したアジア通貨危機はインドネシアにも波及、ジャカルタでも大規模な暴動が発生。98年に新規工事の中断を余儀なくされた。
99年にデパート「SOGO」が開業したが、その後も各地で爆弾テロが相次ぐなど社会不安は続き、工事再開にこぎ着けたのは、2005年のこと。大石さんは、工事の中断期間を「空白の8年」と表現、「最も苦しい時期だった」と振り返る。
通貨危機でルピアの価値は8分の1に急落、業績悪化から夜逃げ同然で姿を消すテナントが相次いだ。
その時、STSは、市場より有利な為替レートを保証する「固定優遇レート」を導入、テナントの賃料を実質的に下げた。この方式はすぐに周辺の不動産会社にも波及し、通貨下落の負担を貸し手と借り手双方が負担する「業界のモデル」となったという。
当然、会社の業績は悪化した。日系の建設会社がそろってインドネシアでの事業を縮小した時期で、鹿島社内でも事業からの撤退論が出た。そうした中で、「鹿島は、途中で事業を投げ出しません」と事業の後ろだてになってくれたのが、社長時代からプロジェクトを見守ってきた鹿島昭一現最高相談役だったという。
その後は、事業は順調に進み、10年にはオフィス・3、12年にはアパートC棟とD棟、15年8月には最後のフェアモントホテル&リゾートが開業し、「建設」の段階は終了した。
大石さんは「一時工事を中断したが、その後はインドネシアの成長の波に乗り、恵まれた事業環境だった」といま振り返る。
現在は「運営」のステージに完全移行した。施設を物理的に維持管理していくだけでなく、商業施設も運営する立場から常に新しいことにチャレンジし「五感に訴える空間」を提供していきたいと話す。
2036年にインドネシア政府に所有権を無償譲渡することになるが、「最良の状態で引き渡します。契約終了後も運営を引き受ける準備はできています」と鹿島の持つ総合力を強調した。(西川幸男、写真も)
◇大石 修一(おおいし・しゅういち)1959年生まれ。83年東京大学経済学部卒。同年鹿島建設入社。2004年からスナヤン・トリカリヤ・スンパナ社長、15年カジマ・オーバーシーズ・アジア(KOA)副社長。16年鹿島建設執行役員。静岡県出身、57歳。