戦前の日蘭会商に参加 故前田少将の義妹 西村さんの思い出
日本が太平洋戦争に突入する前年、オランダ領のインドネシア・ジャカルタで石油獲得を目指す日蘭会商が開かれた。日本の運命を決めることになるこの会議に出席していた西村良子さん(92)がこのほど、西ジャワ州チブブールの自宅で当時の思い出を語った。
西村さんの父は日本人、母はインドネシア人で、戦前からスラバヤで日本料理店を営んでいた。姉と共にスラバヤで生まれ育ち、オランダ語、インドネシア語、ジャワ語も話せたという。中学は日本で学んでいたが、1940年9月、ジャカルタで開催された日蘭会商に雑用接待係として外務省に徴用され、小林一三・商工相団長、各省庁、海軍、陸軍代表らと共にジャカルタ入りした。当時はまだ17歳だった。
この時、後に建国の父となるスカルノ初代大統領を支え、独立宣言の起草を後押しした前田精(ただし)海軍少将と出会う。「まさか前田さんがその後、姉と結婚するとは思ってもみなかった」と話す。父の日本料理店は海軍がよく利用していたため、海軍とのつながりが多かったようだ。
当時オランダは本国をドイツに侵攻され、交渉の最中の9月27日に日独伊三国同盟が結ばれ、結局、日蘭会商は決裂し、翌年の真珠湾攻撃での開戦につながることになる。
西村姉妹はいったん帰国するが、開戦後に前田海軍提督事務所に勤務することになり、終戦まで奉公したという。日本の無条件降伏後の1945年8月16日夜、インドネシア独立を目指したスカルノ氏とハッタ氏がジャカルタ市内の前田邸を訪れたとき、西村さんは邸内にいて、両氏のジャワ語の会話を偶然聞き、「ずいぶん困難な交渉をしているのだな」と思ったという。
開戦後、スラバヤで日本料理店を経営していた父に会いに行った際、海軍病院で介護訓練を受けた。そこで海軍に勤務していた小倉みゑさんと出会った。小倉さんは戦後、抑留生活を経て日本語学校「ミエ学園」を創設、日イ親善に尽くした人で、叙勲で旭日双光章を受章した翌年の2010年に88歳で亡くなっている。
インドネシア独立から70周年の今年8月、ジャカルタを訪問した前田少将の長男、西村東亜治(とあじ)さん(72)は、西村さんにとって、おいに当たる。東亜治さんと20年ぶりに再会した西村さんはうれしそうな表情を見せた。西村さんは戦争中は自由がなかったといい、現在の平和な時代の若い人たちに「何でもできるのだから先延ばしにせず、今を大切にしてほしい」と話している。(濱田雄二、写真も)