「鎮魂の碑」地盤沈下 慰霊難しく有志が管理 スマラン事件 日本人犠牲者
1945年の第二次世界大戦終戦直後、武器の引き渡しなどをめぐって旧日本軍とインドネシア人が武力衝突した「スマラン事件」。事件の日本人犠牲者188人を慰霊する「鎮魂の碑」が、中部ジャワ州スマラン市中心部を流れる西バンジルカナル川の河口にある。だが近年地盤沈下が深刻化。慰霊地の保全が難しくなり、地元日本人の有志が清掃など管理を続けている。
鎮魂の碑はスマラン事件から53年後の1998年に建立した。当時憲兵隊員として、市内のブルー刑務所に監禁されていた日本人らを救出した青木正文さんなど関係者が、スマランで碑を建立したいと働きかけたことがきっかけ。
98年10月の完成式典には、青木さんや日本側の関係者のほか、スマラン市のストゥリスノ市長(当時)らインドネシア側の関係者も参加。鎮魂の碑のそばにストゥリスノ市長の署名入りの石盤も置かれ、日イ間の友好を誓った場所となった。
スマラン付近に住む日本人の有志は建立以来、定期的に鎮魂の碑を清掃している。ことしも29日に清掃が行われ、有志8人が参加。碑の敷地内に無造作に生えている雑草を1時間かけてきれいにした。
関係者によると、以前はスマラン日本人会の一般行事として鎮魂の碑の清掃を呼びかけていたが、建設後10年で水没し2011年には一時現場に近づけない状態に。12年12月に政府開発援助(ODA)事業として、かさ上げの工事をしたが、それ以降も雨が降ると、アクセスが悪くなるため、現在は希望する有志のみで清掃を行っているという。周辺は工業団地として開発中のほか、私有地も含まれており整備が難しい。
「建立当初は関係者やスマラン市が深く関わっていました。(今は)事件から年月が経ち、関係者の方が少なくなり、誰が正式に管理しているのかわからない」のが現状という。清掃に参加した野々山匠さんは「日イにとって忘れてはいけない大切な場所。私たちでできるだけのことをしていきたい」と話している。
ブルー刑務所で殺害された日本人の多くは、近くを流れる西バンジルカナル川に葬送されたため、青木さんらは同川の河口付近への建立を決めた。スマラン市や地元の人の協力で98年、河口付近に2400平方メートルの土地を取得し、鎮魂の碑の建立が実現。碑の裏面には、事件で死亡が確認された188人の名が刻まれている。
スマラン事件 1945年の終戦後、インドネシアは連合軍との独立戦争に備え、旧日本軍に武器の引き渡しを要求。45年10月14〜18日、中部ジャワ州スマラン市で日本軍とインドネシア人の間で武器の引き渡しなどをめぐって大規模な武力衝突が起こった。一部日本人は市内ブルー刑務所に監禁され、無差別に殺害された。死者は日本人が200人以上、インドネシア人は1千〜2千人以上ともされている。インドネシアでは、五日間戦争として知られる。(佐藤拓也、写真も 11面に関連)