がれきの山から復興 津波3日後に現地入り 10年経ったバンダアチェの村

 巨大津波発生から3日後、私は先に取材していた毎日新聞の記者に呼ばれバンダアチェに入った。たまたま中心部の大モスクの近くで知り合った住民の案内で、私たちは5キロほど離れたランバロスケップ村を訪れた。

 ラビラビと呼ばれる乗り合いの小型バスを10分ほどで降り、歩いて村に入った。バス通りと違い道はがれきに覆われたままだった。少し進むと刺激の強い異臭がしてきた。腐敗した遺体が発する臭いだった。その道はがれきの間に無数の遺体が散乱する地獄のような情景が広がっていた。水は引いていたが、流された船や車ががれきに覆いかぶさっていた。案内してくれた住民と別れ、私たちは2時間以上歩いて中心部に戻った。
 このことを毎日新聞が報じ、年明けに日本の非政府組織(NGO)が村に入り住民とがれきの撤去を始めた。今度はテレビ朝日が報じ、日本からの支援金が集まった。かなり時間がかかったが、がれきが減るにつれ住民が戻ってきた。復興庁はここに長屋のような仮設住宅を建てた。8ユニットで最大時300人以上がここで暮らした。
 2008年までに復興庁が一戸建ての住宅を建設し、住民が移っていった。そして仮設住宅は撤去され、今はサッカー場になっている。道路はオートバイや車が行きかい、地獄のような10年前の情景は想像できない。
 私はバンダアチェを訪れるたび、ランバロスケップ村に寄っている。巨大津波から10年を迎えるにあたり、村長のヌル・ユスフさん(61)に話を聞いた。
 ヌルさんは「日本のメディアやNGOのおかげで他の村より早く復興でき大変感謝している。日本の方々からは多くの支援を頂いた」と話す。
 東日本大震災が起きたときはテレビの映像を見て驚いたという。「アチェの津波の記憶が脳裏によみがえった。この村には船や車が流されてきたが、日本では飛行機が流れていた。そして多くの方が亡くなった。原発事故で暮らしていた土地に帰れなくなった人は本当に気の毒だ」と語る。
 だが「4年近く経つのにまだ多くの人が仮設住宅で暮らしていると聞く。技術が進み、お金がたくさんある日本なのになぜだろう」とも話す。「外国人の記者やNGOがほとんど来なくなり、アチェのことが外に伝わらなくなった。津波の経験を風化させてはいけないと思う」
 震災10年を迎え、この村では大勢の人がモスクに集まり、追悼の祈りが夜遅くまで続くという。(紀行作家・小松邦康、写真も)

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