【アチェ西海岸は今 大津波から10年(中) 】元独立派兵士の夢むなしく 元司令官は大富豪に 新設のナガンラヤ県

 「ジュラガン? 西アチェの人で知らない人はいないよ」
 津波で甚大な被害を受けた西海岸のナガンラヤ県。西アチェ県から独立した県の一つで、空港や火力発電所も県内に位置する。「ジュラガン」とは、この県議会の副議長を務めるサムスアルディ氏の通称で、地方政党アチェ党に所属する地元の有力政治家だ。前職は県議会議長。今年の総選挙でアチェ党がゴルカル党に抜かれて第2党に転落したため、副議長に降格したという。
 西海岸は独立派武装組織・自由アチェ運動(GAM)の有力拠点だった。戒厳令下で治安当局によるGAM掃討作戦が展開されていた。そこへ津波が直撃、世界から殺到した支援団体も治安当局から同行を命じられた。
 だが2005年8月の和平合意で状況は一変し、30年に及ぶ紛争は終結。遠隔地も外界に開かれるようになった。
 復興が進む一方、アブラヤシ農園事業などで財を成したのが、GAMのナガンラヤ地区司令官だったサムスアルディ氏だ。「GAMを長年率いた後、実業家・政治家に転身し、大金持ちになった元プレマン(チンピラ)」との見方が一般的だ。自宅は「県庁舎より大きくて立派」(近隣住民)と言われる豪邸だ。

■元部下たちの失望
 「彼には失望した。ジャングルで共に戦った同胞を忘れ、自分の利益だけを考えるようになった」。元GAM兵士のブルハンさん(43)とディン・アブディさん(46)はこう嘆く。サムスアルディ氏の指揮の下、8年間にわたり銃を握りしめ、同じ部隊で生死をかけた戦闘を続けてきたが、今では見向きもされないという。
 津波後、元兵士の多くは銃を手放しアチェ党に入党した。ブルハンさんも地元の同党支部の広報を担当する。県議会や州議会などへ足を運び、公共事業に絡む交渉も行う「仲介者」だが、元上官の力添えは期待できない。地域住民が管理する水田の灌漑(かんがい)施設建設を訴えたが、実現の見通しは立っていない。
 ブルハンさんは「当時、夢だったアチェ独立の目的はただ一つ。貧しい人々の生活向上だ。その実現に向けて戦った司令官が今では議長、副議長と役職にしがみついている。このままでは新たな対立の火種になりかねない」と警告する。「今年の総選挙でアチェ党が低調だったのは、市民の期待を裏切ったからだ。津波も紛争も乗り越え、さあこれからという時期に地元に何も貢献できなかった」
 西海岸一帯の市民は20世紀初頭までオランダと激戦を交え、植民地化に最後まで抵抗した拠点との意識が強い。オランダ軍を支持すると見せかけて反撃したトゥク・ウマールは西アチェ出身の国家英雄だ。夫の死後、部隊を率いた妻のチュニャディンの半生は映画化され、空港の名称にもなっている。

■援助活用し自立も
 復興と和平は切り離せない。アチェ・ニアス復興再建庁(BRR)は元GAMの兵士対象の支援も行った。元兵士の中には支援を有効に活用し、自立の道を着実に歩む者もいる。
 同県を拠点に運送業を手掛けるイスワンディさん(37)は、1億5千万ルピアの援助金を軽トラックの購入に充てた。アブラヤシや青果物を北スマトラ州メダンまで運び、日用品などを持ち帰る。運転免許も津波後に取得した。もう銃は手にしない。武力を使う必要はもはやなくなったからだ。
 津波から8カ月後、政府とGAMの間で和平合意を締結。以降、武装解除を進め、アチェ自治法が制定された。広範な自治権を得て国内で唯一、地方政党の設立を認められ、シャリア(イスラム法)に基づく社会構築が進められている。 
(配島克彦、写真も、つづく)

社会 の最新記事

関連記事

本日の紙面

JJC

人気連載

天皇皇后両陛下インドネシアご訪問NEW

ぶらり  インドネシアNEW

有料版PDFNEW

「探訪」

トップ インタビュー

モナスにそよぐ風

今日は心の日曜日

インドネシア人記者の目

HALO-HALOフィリピン

別刷り特集

忘れ得ぬ人々

スナン・スナン

お知らせ

JJC理事会

修郎先生の事件簿

これで納得税務相談

不思議インドネシア

おすすめ観光情報

為替経済Weekly