【プルバリンガが結ぶ 日イの地方】(中) 2度の工場移転乗り越え 知事との2人3脚

 日本の中小企業が協働し、中部ジャワ州プルバリンガ県内に「かまぼこ板」の生産工場を構える―。
 その目標に向かって動き出した1995年、専門商社の日成共益取締役だった杉本健三郎氏(78)は建材部を担当。インドネシアでは割り箸工場の経営にも携わっていた。
 そんな折、一つの幸運が舞い込む。仕事を通じて知り合ったインドネシア人の工場運営が悪化。採算が取れなくなり、彼からこの工場を「月額50万円で借りないか」と打診を受けた。
 立地や設備などを勘案した結果、「高いと感じたが、これはチャンスだと思った」と杉本氏。
 パートナーで、取引先だった山岸木工所(本社・静岡県)の故山岸重信社長とじっくり話し合ったうえ、ここで、かまぼこ板工場を運営することを決めた。
 当時、社長はインドネシア人である必要があったため、共同でかまぼこ板製造の合弁会社を設立した。日成共益が95%、山岸木工所が2.5%出資し、残りを知り合いのインドネシア人社長が出資した。
▼乗っ取られた機材
 操業後、日本だけでなく、台湾への輸出も徐々に増え始めていたが、2006年に状況が一転する。
 賃貸契約が切れ、更新の際、現地社長から地代の値上げを要求された。月額50万円でも高かったのが、提示された金額は倍の100万円。
 「日本の家賃より高い」と主張したが、折り合わず、契約は解消となった。機材の名義が数年前に無断で、この社長名義に切り替えられていたことも判明。製材機を搬入した時点から、工場の乗っ取りは企てられていたようだった。
 杉本氏は「会社設立の手続きを全てインドネシア人に任せきりにしていたことが失敗だった」と振り返る。
 10年かけて蓄積したノウハウを無駄にはできなかった。当時、近隣の工場経営者からビジネスのノウハウについて相談を受けていたが、この経営者から「高い家賃はいらない。うちに来て欲しい」と声がかかり、移転を決意。新規設備に総額1億5千万円を投資し、かまぼこ板工場経営を再開した。
 しかし、ここでも設備を搬入後、様相が一変した。最新設備を自社に取り込もうと、杉本氏らを追い出そうとする画策が始まり、家賃も上がり、月額50万円を支払うことになった。
 そして、11年の1月26日。ついに工場を出て行けと宣告された。親切だったはずの経営者は自社の機材を勝手に工場に搬入し始め、かまぼこ板の製造は不可能になった。
 上場する大企業のような資本は持ち合わせていない。これ以上の投資もできない。撤退が脳裏をよぎった。
▼県知事の協力を得て
 杉本氏は毎日、新しい工場を探し回ったが、適当な場所は見つからなかった。途方に暮れていると、地元住民の一人から「杉本さんは県知事と仲が良い。一度相談してみてはどうか」と助言を受けた。
 トリオノ前知事とは05年ごろから友好関係が続いていた。「この工場は病院よりきれいだ」とほめられ、国内各地からさまざまな経営者が工場見学に来るようになっていた。
 知事との交流が始まってから、地元警察や税務署、入国管理局からの理不尽な「ゆすり」がなくなっていたことも事実だった。
 その縁で杉本氏は後の知事になるスケント氏に相談。「機材一式は無料で差し上げる。販売や工場の設置、全て私が手伝う。その代わり、従業員100人を一緒に引き取っていただきたい」と交渉した。必死だった。
 スケント氏は了承し、工場から追い出された数カ月後、甥のルッキー氏が100%出資、経営するサンジャヤプリマ社が誕生した。残してきた機材も幸い乗っ取りに遭うことなく、全設備を移動させ、かまぼこ板工場の新体制が整った。
 スケント氏は13年に知事に当選。互いの絆はさらに深まった。「地域に根付いてきたことで救われた」と杉本氏。長年育んできた交流によって、果たすことができた復活だった。
 プルバリンガ県のある県境には今も、「SAYONARA」と記載されたアーケードがある。
 トリオノ前知事が「友好の証に」と、05年に建ててくれたものだ。杉本氏はこのアーケードをくぐるたび、この文字を見上げている。(佐藤拓也、続く)

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