【プルバリンガが結ぶ 日イの地方】(上) 中小企業と県の絆 「かまぼこ板」が始まり

 1995年。当時、建材などを扱う専門商社の日成共益に勤めていた杉本健三郎氏(78)は、高品質かつ安価な木材を求め、よい材料があるとにらんだ中部ジャワ州プルバリンガ県の地に足を踏み入れていた。
 見渡すばかりの松林を目にしながら、思案を繰り返した。結論は「この木材ならいける」。
 杉本氏は、取引先だった山岸木工所(本社・静岡県)の故山岸重信社長から頼まれ、同社の主力製品である「かまぼこ板」製造のため、より安価な材料を探していた。
 その答えがインドネシアのプルバリンガ県にあった。日本ではほとんどなじみがない。盲点と言えた。
 それから19年間、同県と、日本の地方都市で事業をしている中小企業が、ビジネスの枠を超える官民の交流に至るとは、当時、杉本氏は考えもしなかった。

▼モミではなく、松を
 プルバリンガ県は人口約90万人。ジャカルタから東へ約400キロ。スマランから西に約200キロの位置にある。最低賃金は約100万ルピアと、ジャカルタの半分以下だ。人件費も抑えられる。
 山岸木工所の山岸社長は95年当時、かまぼこ板のような付加価値がない製品を日本で諸経費をかけて作ることに限界を感じていた。
 かまぼこ板の主流である北米産のモミの価格も高騰していた。
 山岸木工所からかまぼこ板を購入していたのは、富士蒲板(本社・山口県)。当時、富士蒲板は販売の8割以上を北米産のモミに頼っていたため、販売価格より原価が上回っていた。販売すればするほど赤字という窮地だった。
 同社の清水政志常務は、山岸社長との協議の末、プルバリンガ産の松を採用することに決めた。なんとか生産にこぎつけたが、インドネシアと関わった当時の記憶をこう振り返る。
 「ヤニが多く、松特有の臭いも強いことから、95年から取引を始めたが、最初の10年間ほどは、お客様に対し積極的に提案できる品質ではなかった」。
 だが、その後、状況は少しずつ変わり始める。

▼見出した活路
 品質向上の兆しがあった松(メルクシパイン)を確かめるため、清水常務がプルバリンガ県に向かったのは2012年。そこで、日成共益の杉本氏にあらためて相談し、同県を長期にわたり、くまなく視察してきた同氏のアドバイスを受け、本格的にメルクシパイン販売を決めた。
 日本国内のかまぼこ板工場は大きくても50人規模だが、清水常務がプルバリンガ県で見た工場は、250人体制。1日20万枚の規模があった。杉本氏や山岸木工所の支援のもと、3者で製造方法の改善を徹底。大型ボイラーを導入したことで殺菌や消臭、ヤニの除去も実現し、品質は格段に向上した。
 「品質が向上すれば、日本にこれだけのかまぼこ板工場はない」と確信した。プルバリンガ県でようやく、手応えある活路を見出した瞬間だった。
 それまで3カ月に1コンテナ(長さ20フィート)だった取引を月間3コンテナに拡大した。以降、日本の顧客にもメルクシパインが受け入れられ、棺桶用の芯材や木箱用の材木も含め、2015年からは月間5コンテナに拡販を決めた。
 この成功には乗り越えてきた幾多の試練があった。

◇   ◇
 中部ジャワ州プルバリンガ県にインドネシアで唯一「かまぼこ板」製造に成功した工場がある。19年前に始まったかまぼこ板の取引は、インドネシアの地方と日本の中小企業のつながりに新たな可能性を生み出した。動き始めているビジネス以外の取り組みを含め、プルバリンガ県とともに歩む道を選んだ中小企業のこれまでを追った。(佐藤拓也)

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