所澤仁氏が逝去 日イ関係の発展に貢献
1980年代から90年代にかけ科学技術の交流を中心に日本とインドネシア二国間関係の発展に大きな役割を果たした所澤仁(しょざわ ひとし)元日本インドネシア科学技術フォーラム(JIF)事務局長が11日午前入院中の神奈川県内の病院で死去した。78歳だった。
所澤氏は1935年生まれ。東京大学で化学を専攻、大手化学会社三菱油化に入り日本エネルギー研究所に出向した。インドネシアのエネルギー事情調査に取り組んだことが同国と縁のきっかけ。バイオ燃料プロジェクトなどへの取り組みを通じハビビ科学技術応用評価庁(BPPT)長官(国務長官)の知己を得たことがその後の飛躍台となった。
後に第三代大統領に就任した同長官は西ドイツに留学し30歳台で同国の航空機会社メッサー・シュミットの副社長を務めた技術者である。技術立国日本を高く評価しており、日本との科学技術協力関係の強化を提案した。これを受け、所澤氏はJIF日本インドネシア科学技術フォーラムの結成に奔走し、84年発足にこぎつけ日本側事務局長に就任した。
ハビビ長官は32年間の長期政権を担ったスハルト大統領の信頼が厚かったこともあり、所澤氏のアドバイスはそのままインドネシア政府の科学技術政策にも反映される結果となった。
日本の科学技術吸収のため日本に送られた留学生の中からマルザン・イスカンダールBPPT長官、ルクマン・ハキムインドネシア科学院(LIPI)長官ら多くの人材を輩出した。同国の科学技術分野の人材育成に所澤氏が果たした役割は大きい。
また所澤氏はJIFのインドネシア側のワルディマン事務局長(ハビビ政権の教育相)と密接な協力関係を築き、インドネシア側赤道レーダー計画、スラバヤ・マドラ間架橋計画など多数の案件に携わったほか、三菱重工業や三井造船など日本の民間企業との協力関係の推進にも所澤氏は力を尽くした。
こうした功績に対し1993年にインドネシア政府は「ビンタン・ジャサ・ナラヤ勲章(第三等国家功績勲章)」を授与した。個人的には、日本に来ると刺身を楽しみしているハビビ大統領に「トロ」を準備する気配りや、新宿の老舗天ぷら店も楽しむ一面も持ち合わせていた。(小牧利寿)