フクシマ文化の将来を思う オランダ、日本に翻弄され 北の小島ルビア島のアチェ人 ヤーさん一族が守り抜く遺産
海水浴客でにぎわう砂浜を、牛がのそのそ歩いていた。インドネシア西端のサバン(ウェ島)近くに浮かぶルビア島。妻と二人暮らしのヤーさん(八八)は、小さなコテージの運営と数頭の家畜を育て、日々の生計を立てている。
ヤーさんの一族はオランダの植民地支配、日本軍の軍政など時代に翻弄されながら、この小島で生きてきた。端から端まで約五百メートル。ほんとうに小さな島だが、人々が生きてきた歴史がある。
スマトラ島のムスリムにとって、この小島は聖地メッカを目指すインド洋の玄関だった。「診療所や安宿が建てられ、わしらの時代が、最もにぎやかだった」と、亡き祖父が自慢話をよくしてくれたとヤーさんは語る。
しかし、太平洋戦争が始まり状況は一変。シンガポールから南下した日本軍はルビア島を占拠、森と海に要塞を築いた。その後、米国・オランダの連合国軍によって要塞もろとも病院や宿は破壊され、今でも島中心部の森に入ると、草木が茂る中にその残骸が散らばっている。
戦争が終わり、インドネシアの経済が持ち直し始めると、ルビア島は「観光の島」として次第に注目を浴びるようになったが、一九七六年ごろ、ジャワ人が主導する中央政府にアチェ人が反発し、分離独立運動を開始。内戦状態となったため観光客が激減した。その後、二〇〇四年のスマトラ沖地震・津波ではコテージがほとんど流され、観光客が戻り始めたのはごく最近だ。
アチェ州政府に払っていたわずか月二万ルピアの税金を今は払っていない。「地元の役人が取り立てに来なくなった。政府からの援助はないし、同情してくれているのでは」と笑う。
「どれだけ翻弄されても、この島がわれわれ一族のふるさと」。ヤーさんは心臓病を患っており、余生を静かにこの島で暮らすつもりだ。
海を真っ赤に染める夕日も、美しい砂浜も、観光客との触れあいも、家ちくの牛たちも、未来永劫、子どもや孫に引き継がせるためにヤーさんが先祖から受け継いできた遺産。それこそがインドネシアの文化なのだ。
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日本は、東日本大震災から八カ月半が経った。「放射能に汚染されても、福島を離れないお年寄りたちがいます」と伝えると、「きっとぼくと同じ気持ちだと思う」と深くうなずいた。福島の農民や漁民が育てた文化遺産の運命はどうなるのだろうか。