編集長からのメッセージ じゃかるた新聞13周年を迎えて

 インドネシアの民主化とともに旗揚げしたじゃかるた新聞は、今月十六日で創刊十三周年を迎えます。通算発行号数三千八百七十九号。ひとえに、この小さなコミュニティ紙をご愛読いただいた読者の皆様のおかげです。
 ジャカルタ中心だった読者数も、バリ島の観光客や東京の「キラキラ会」など駐在員OBや企業の本社で購読していただけるようになり、わずかながら読者層を拡大しています。日本は三月十一日、東北三陸地方で地震、津波、原発事故と未曾有の災害に遭遇し、社会全体を覆っていた「失われた日本」の停滞ムードは今なお続いています。あれから八カ月以上経ちましたが、復興財源をどう確保するかの論議が続いているだけで、日本の社会システムを根本から見直そうという意気込みは薄れてしまいました。
 放射能汚染に関しては、東京電力が内部を一部公開し、東京電力福島第一原子力発電所の吉田昌郎所長が、「年内冷温停止」「廃炉まで約三十年」と語ってくれたことが、(今ごろになってなんだというのが福島県民の声ですが)、福島の農業、漁業復活になんらかのプラスの役割を果たすだろうと期待しています。

 ▼これに対し、独立六十六年の若きインドネシアは、スハルト将軍の軍事独裁体制を平和的な手段で崩壊させることに成功(一九九八年)した後も、民主的な大統領制、民意を反映した国会や憲法改正、華人文化、言論・出版、報道の自由を実施し、一方で、国内の貧困層の若者の間に広がったテロリスト集団や、司法・警察など国家権力に潜む汚職、不正、癒着の摘発など国内問題に力を注いできました。
 日本人が、明治以来の官僚主義に固執し、成功体験を過大評価し、改革の情熱を失ったこの二十年に、インドネシアは二十一世紀世代ともいうべき新世代の起業家、官僚、テクノクラートを育て、長期的視野に立った天然ガス、石炭などのエネルギー資源、農業・漁業、外貨獲得のための観光戦略、より大胆な外資導入策、インフラ整備計画などをそれなりに模索し、円高の日本からの集中投資で製造業、部品・裾野産業の育成やインフラ整備に加え、最近は日本の投資の動きも手伝い、エネルギー開発技術にまで手を広げようとしています。
 日本側にも、「アジアの成長を取り込むことなしに実現できない」との認識が定着し、日本政府は十一日、これまでになくアジアとの深いかかわりを持つ形で、多くの反対を押し切って「TPP(環太平洋経済連携協定)」へ事実上の参加を表明しました。

 ▼そんな中、インドネシアの変化と発展ぶりを地方の農村で見ようと、メダン総領事に着任したばかりの濱田雄二さんと今年三月初め、スマトラ沖地震(二〇〇四年十二月)の被災地だったアチェ州を取材し、国内だけで十七万人の死者・行方不明者を出したアチェ州のバンダアチェ、サバン島などの復興ぶりに感動し、三月二日、八日のじゃかるた新聞で報告しました。(「アチェ、見事に復興 アジアの食糧基地目指す」)
 少数民族のアチェ人と中央政府の官僚たちが賢かったのは、この大災害という機会を逆手にとって、反政府・分離独立武力組織の自由アチェ運動(GAM)との和平を勝ち取ったことでした。アチェの指導者や日本留学経験のある親日派は「今回の逆境をぜひ改革の力にしてほしい」と激励してくれました。
 私自身も、日本人の新しい生き方論を踏まえ、日本の今後の都市造りのアイデアや農業、漁業、最先端技術などを生かしたコミュニティ再建に取り組んでいきたい、との希望が湧いてくるのです。

 ▼民主・自民党を問わず、保守派の議員の中にも今こそ三・一一の原点に戻り、東京電力と政府の責任を明確にした上で、巨大な地域独占企業を解体し、健康対策、土壌洗浄、産業復興、電力市場の自由化を促す発送電分離などに取り組むべきだと主張する意見も多く出されました。 
 福島原発の一号機(一九七一年運転開始)は、そもそも米国のメーカーが納入した時からの欠陥商品であり、当時の政府、東京電力の徹底したコスト優先主義が、安全軽視の風潮を招き、そのために、この原発にとって決定的に重要だった補助電源装置の位置が低く、実際に襲った今回の津波(約十五メートル)の力を抑える能力はなく、メーカーや国際的な水準にほど遠かったことが事故の最大の原因であると改めて指摘されています。
 突然、降って湧いた三・一一に、過去四十年、アジアの報道にかかわってきたジャーナリストとして何かできることはないかとあせるような気持ちにさせられ、戦中戦後、少年時代を過ごした出身地の福島県いわき市、毎日新聞の駆け出し時代の初任地だった仙台市などを取材し、インドネシア人の漁船員や水産工場労働者が働いていた気仙沼市では、ユドヨノ大統領夫妻の被災者慰問にジャカルタから駆けつけた記者団とともに参加。被災した気仙沼市民、気仙沼の小中学生、現地でボランティア活動していたインドネシア人の看護師・介護福祉士、難を免れた現地在住のインドネシア人らと心温まる交流が行われました。
 ▼私は、二〇〇九年四月から約二年間にわたり東京の病院で病気の治療を受けてきましたが、今回、なぜか、大地震の直後から体調を崩し、この四月から入退院を繰り返し、気仙沼取材の直後に同病院に緊急入院しました。
 現場を離れるのは辛いことですが、このたび、じゃかるた新聞編集長のポストを副編集長の上野太郎君に譲り、私自身は、シニアエディター(論説委員)兼副社長のタイトルで、後継者の指導、これまで同様に「アジアを理解する新世代のジャーナリスト」を育てる仕事を続け、日本国内に増えつつあるじゃかるた新聞のようなコミュニティ紙を世界に普及させる動きを支援していきたいと考えております。
 中村隆二社長や新任の上野編集長およびじゃかるた新聞のスタッフに、これまで以上のご支援をお願いいたします。
 二〇一一年十一月十六日
 じゃかるた新聞編集長
 草野靖夫

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